隼人石 -隼人説考-

14 迷いが生んだ「犬石」

 『山づと』に次いで隼人石を取り上げたのは、秋里籬島の『大和名所図会』(1791年)でした。籬島は、1780年に刊行した『都名所図会』が大当たりし、その後、同様の「図会物(各地の神社や名物など紹介した旅行案内書)」を矢継ぎ早に出した売れっ子作家です。
 では、もう一度記事を確認しましょう。

犬石
南陵の乾にあり。此所元明帝の陵と云ひ伝ふ。此石、陵の四方に建ちし石なり。若隼人像なるが後考あるべし。隼人応天門に陣し犬衣を着する事、延喜式に見へたり。
(秋里籬島『大和名所図会』1791年)

 このように、「犬石」と名付けて狐ではないことを強調し、さらに『延喜式』まで出して隼人説を紹介しているにも関わらず、「後考あるべし」、つまり後世の学者の見解を俟ちたいと、断定を避けています。
 一方で、『大和名所図会』が初発の内容もあります。まず「犬石」という呼称は、『大和名所図会』以前には見つけられない用語です。土地の人々は「狐石」と呼んでいたと思われますので、何らかの籬島の考えが反映していると思われます。また、「陵の四方に建ちし石なり」という設置事情に関する説明も先行する書物では見当たりません。ちなみに石の数を明記しないのも『大和名所図会』の特徴です。
 ところで、所在する場所については秋成と意見が分かれるだけでなく、混乱があるように思われます。

元明帝陵
法華寺村の北にあり。字大奈閉山といふ。 … 中略 … 奈良坂善城寺の函石は此陵の上にありしを彼地へ移せしなり。又雍良峰(よらのみね)の犬石は元明帝火葬の地なり。世に七疋狐といふは誤なり。
(秋里籬島『大和名所図会』1791年)

 犬石は、元明帝の火葬地である雍良の峰にあり、大奈閉にある元明帝陵とは別の場所である、また元明帝陵を七疋狐と呼ぶのは間違いだということでしょうか(「狐」ではなく「犬」だから?)。あるいは、先ほどの犬石の条の説明と合わせて読むことで、犬石の在る雍良峰は元明帝の御陵と言い伝えるが、ここは火葬の地であって御陵は大奈辺山にあるという説明をしようとしているのでしょうか。いずれにしても整理不足な説明です。

 この混乱の要因の一つは、『大和名所図会』の成立事情にあると思われます。

越に延宝中林氏和州旧跡幽考を著す。又近頃藤の禹言大和名勝志を撰んと欲して、僅三分許にして没す。予近年都名所図絵前後の両編を著す。其因に倚て而して以て洛の芙蓉房予に彼の禹言の遺志を告ぐ。廼其草稿を得て而して以て大和名所図会七巻を撰ぶ。   …原文は漢文

 上のように籬島は跋文で『大和名所図会』は、亡くなった植村禹言の遺志を引き継ぎ、その草稿をもとにして編集したと述べています。実際、名所の選び方や並べ方にも、個々の説明文にも『広大和名勝志』を参考していると思われる個所が多数あり、かなりの部分を『広大和名勝志』に依っていることがわかります。
 では、「犬石」の項はどうなっていたのでしょうか。実は残念ながら、現在公開されている国立公文書館デジタルアーカイブの稿本でも、奈良県立図書情報館蔵の写本でも「犬石」が載っていたであろうと思われる個所が残っていません。『広大和名勝志』は未完の草稿ですから、もともと禹言が書いていないのか、行方不明になったのかはわかりませんが、とにかく手がかりが途絶えてしまいました。そこで、代わりに参考として元明帝陵(奈保山東陵)に関する両者の説明を並べて比べてみます。

『広大和名勝志』『大和名所図会』
  〇奈保山東陵
(延喜諸陵式、続日本紀、前王廟陵記、大和志、陵考 を引用した後に)
 〇言按大奈辺、大和志ノ説ヲ是トス。廟陵記所謂③’七疋狐ノ辺トハ大ニ地理ヲ誤ル。②’七疋狐ト云ハ元明帝火葬ノ地ナリ。第 巻佐保山ノ條<擁良岑>ニ詳也。又或今①’奈良坂善城寺ノ内ニ在函石此陵ノ上ニアリシヲ彼地ヘ移セシモノト云。是亦誤也。続紀ヲ考ルニ太上天皇<元明>詔ニ火葬ノ後他所ニ改ルコトナカレ。其所ニ刻字ノ碑ヲ立ヨトアリ。元正紀ヲ考ベシ。此陵ハ大葬ノ後三年ヲ経テ地ヲ卜シ新ニ築レタル陵也。然ルヲ元明紀ニ養老五年添上郡椎山陵ニ葬ルト有リ。国史ハ其始ヲ記シ其後三年過テ陵成就セル年紀ヲ闕モノト見ヘタリ。此類不少。元正帝及其余先陵ヲ考テ知ベシ。刻字碑ノコト七疋狐ト云コト、既前巻に詳ニ出ス。合見ルベシ。
元明帝陵
法華寺村の北にあり。字大奈閉山といふ。帝陵記曰高九間根廻り三百四十六間垣廻り三十五間。①奈良坂善城寺の函石は此陵の上にありしを彼地へ移せしなり。②又雍良峰(よらのみね)の犬石は元明帝火葬の地なり。世に③七疋狐といふは誤なり

下線を施した部分が『広大和名勝志』を引用または参考にしたと思われる部分です。比べてみると籬島が『広大和名勝志』の文言を引用しながらも、禹言の説を無視または否定していることがわかります。
 まず、下線部①では、ほぼ禹言の表現を引きながら禹言が「是亦誤也」と否定していることがすっぽり抜け落ちています。そのため全く逆の説明になっています。
 また、下線部②と下線部③は地名に関して混乱があるように見受けられます。禹言が、七疋狐(すなわち擁良岑)は火葬地、大奈辺は3年後に改葬した御陵であり、両者は離れた場所にあって「刻字の碑」があったのは擁良岑であると考えているのに対し、籬島は「刻字の碑」の本来の場所を大奈辺に変えています。さらに擁良岑と七疋狐の関係があいまいで、下線部③は、よくわからないまま禹言の「(地理ヲ)誤ル」という結論だけを引用したような印象を与えます。引用する順序を変えているところを見ると、籬島なりの考えがあったのかもしれませんが、理解不足であったのではなかろうかと思われます。
 その印象を強めるのが下線部②で「元明帝火葬の地」を「雍良峰の犬石」にしているところです。禹言の使う七疋狐は地名ですから、下線部②’は真実かどうかはともかく説明としては成立しています。しかし、籬島が使う雍良峰の犬石は石造物の名称ですから、説明として不自然です。おそらく籬島は七疋狐が石造物の名称だと思い、七疋狐を犬石に入れ替えても大丈夫だと考えたのだと思われます。それは「犬石」の条の「南陵の乾にあり。此所元明帝の陵と云ひ伝ふ。」という説明にも表れています。石造物の説明のはずが場所の説明になっています。この説明が『広大和名勝志』の引用かどうかは先に述べたように確かめようがない状況です。ただ、禹言が書き残していたとしても「第( )巻佐保山ノ條<擁良岑>ニ詳也。※( )は一文字分空白。擁良岑は行間に小字で補足」、「刻字碑ノコト七疋狐ト云コト、既前巻に詳ニ出ス。合見ルベシ。」とありますから、見出しは「犬石」ではなく、雍良岑ではなかったかと思われます。
 参考に各地誌の見出しを並べてみます。

『大和名所記』『和漢三才図会』『広大和名勝志』『大和名所図会』
佐保山
眉間寺
聖武天皇陵
佐保山東陵
佐保山西陵
淡海公墓
欲良能夜麻
元明天皇葬所付七疋狐事

不退寺
法華滅罪寺
横笛堂
阿閦寺

浄土院
法華寺社
海龍王寺
楊梅宮
恵美押勝家
楊梅陵
奈保山東陵
奈保山西陵

眉間寺
 南陵
 東陵
 西陵
 佐保山

欲良峯陵元明天皇陵

不退転法輪寺
法華滅罪寺
 横笛堂
阿閦寺旧跡



海龍王寺



<欠落>




法華寺村
 不退寺
 法華寺
 横笛堂
 廃阿閦寺
 鳥居址
 浄土院
 法華寺神祠
 海龍王寺



 奈保山東陵
 奈保山西陵
松永久秀城址
眉間寺
佐保山南陵
佐保山東陵



犬石

不退寺
法華寺
横笛堂




海龍王寺



元明天皇陵
元正天皇陵

このように、先行地誌類では『大和名所図会』の犬石に当たる所には雍良岑(欲良峰)が来ています。籬島がなぜ犬石を見出しにしたのかは、『広大和名勝志』を確かめられない現状ではこれ以上調べようがありません。ただ、いくつかの仮説を述べるため、一旦、籬島から離れて『奈保山山陵隼人石人考』を書いた覚峰のことを見てみたいと思います。


前:屋代弘賢による深化  次:杜本神社の隼人石と覚峰