隼人石 -隼人説考-
13 屋代弘賢による深化
幕府の右筆、屋代弘賢は、『道の幸』(1792年)、『金石記』(1793年)と続けざまに隼人石について書いています。
一冊目の『道の幸』は、弘賢が幕命を受けて京都・奈良の古寺社の調査をした時の記録です。このときの大和方面の調査には藤貞幹が同行しており、隼人石も案内したと思われます。
では、弘賢が隼人石をどのように記したか、まず『道の幸』を見てみましょう。
所在地を「だいこくの芝」とし「元明帝火葬の地」であると紹介したうえで、地名については藤原宮子との関連を指摘しています。隼人石については「隼人の像えりたる石みつあり」とあっさり触れて、七疋狐という地名との関連で昔は七つあったのではないかと推測しているだけです。
「元明帝火葬の地」と「七疋狐」については『大和名所記』によったのでしょうか、地名由来は『大和志』や『山づと』に近い内容ですが、秋成の使った「七狐の石ぶみ」や「隼人の音鳴き」という言葉を使っておらず、『山づと』とのつながりは希薄ですので、貞幹がその場で解説したのかもしれません。『続日本紀』の件も貞幹の解説によるものである可能性があると思われます。
そもそも隼人石を見たのは貞幹の提案によるものだったかもしれません。先行文献を参照しながらも「狐石」ではなく隼人像としたことも、「隼人の像えりたる石みつあり」という短い記述も、貞幹の解説の受け売りであったとすれば、うなずけます。
もう一つの『金石記』はどうでしょう。
…(「函石」についての記事 省略)…
奈保山御陵碑考証
(引用 省略)
…
同上 隼人像 三躯
隼人の狗装を作り以て山陵を警護する像なり。云ふ、聖武天皇陵の丘の上なり。伝えて云ふ、是乃ち元明天皇の火葬の地なり。土俗、其の所を称して七匹狐と曰ふ。蓋し狗装を誤認して狐と為すか。而して往時を顧みるに其の数七つにして、今纔に三石存するのみ。…(続日本紀の引用 省略)…今其の地に石灰粘砂石に似る者の焼け爛れたる有り。是決して其の竈の残欠なり。之に據りて此の丘は即ち雍良岑なり。 ※原文は漢文
「山陵を警護する」というのは、『山づと』の「陵あまた立たせます所なれば、隼人の音鳴(ねな)き奉る」や『日本書紀』一書の「天皇の宮墻の傍を離れずして、代々に吠ゆる狗して奉事る者なり」を簡潔にまとめた表現と見ることができます。また、「狗装」と表現していることから、弘賢は隼人石の像を、隼人が被り物をしている様子だと解釈したことが分かります。こちらは秋里籬島の『大和名所図会』の中の「犬衣」に近い表現です。「竈の残欠」があったとはにわかには信じがたいですが、1年のうちに隼人石に関する考察が深まり、「隼人説」が定着していたことを感じさせます。
ところで、この『金石記』の隼人像に関する記述を、福山敏男氏は、藤貞幹が著した『奈保山御陵碑考証』の付記と考えておられます。
そうすると、貞幹が『奈保山御陵碑考証』をあらわしたのが明和6年または7年(1769年、1770年)ですから、最も早い隼人説の提唱者は貞幹ということになります。
しかし、『奈保山御陵碑考証』の引用部分と隼人石の見出しは明らかに行頭の高さが違っており(翻刻されたものしか手に入らなかったため確証はありませんが)、また、奈良県立図書情報館所蔵の『大和国古陵図』に引かれた『奈保山御陵碑考証』にも、該当部分は見当たりません。特徴的な「竈」の記述も『道の幸』と共通していますので、やはり、隼人像に関する考察は弘賢の説であると考えるのが妥当だと思われます。
さて、最後に、隼人石の所在地の解釈について簡単に考察したいと思います。
もともと元明天皇陵は隼人石から2キロメートルほど西に離れた大奈閉(現在のウワナベ古墳)だと考えられていました。それを現在の場所(隼人石から北西に500メートルほど離れた小山)だと特定したのが藤貞幹の『奈保山御陵碑考証』です。しかし、文久の修陵までは依然として大奈閉が元明帝陵とされ続けたため、隼人石と元明帝を結びつけるには地理的な矛盾が生じていました(現在の元明帝陵でもやはり地理的に無理があり、このことが後に那富山墓治定のきっかけになるのですが…)。現地で実物を見た弘賢としてはこの距離を無視することができなかったのでしょう。陵上にあるとした藤貞幹の説をそのまま引き継がず、「元明天皇の火葬の地」の石造物としたのだと考えられます。
この「火葬地」のアイデアは、『大和名所記』の「元明天皇葬所」に端を発するようです。続く『大和志』は同じく「火葬の地」としながらも藤原宮子と関連付けましたが、宝暦年間(1751-1764年)に書かれた『大和名所和歌集』では次のように再び元明天皇と結びつけています。
眉間寺より十町はかり北西に当る。里人大黒か芝といふ。又七疋狐とも云。此地は人皇四十三代元明帝、四十四代元正帝火葬の地也。此地のめくりに長さ二尺五寸斗、幅一尺七八斗の石面に狐の頭巾着て、杖を突きたる姿を彫付し石七つ有しとかや。
今は三つ残れり。見誤りて大黒か芝といふ。
しかし、『続日本紀』の記述によれば、元明天皇は火葬の後そのまま埋葬されたとなっており、今度は旧記と矛盾してしまっています。
ところで、『大和名所和歌集』には「狐の頭巾着て」という表現があり、像を「人」と認識していた可能性があります。隼人説の萌芽と見ることができそうです。
なお、所在地の問題は隼人説が広がる過程と関わりが深いので、後にもう一度取り上げます。
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