隼人石 -隼人説考-

12 出発点は蒹葭堂サロン

 次に、秋成の「隼人説」はどのように広がっていったのか考えてみましょう。
 先に紹介した通り、秋成は山づとの旅から戻るや否や、蒹葭堂を訪ねています。また、その後もこまめに蒹葭堂と会っていますので、隼人説は秋成と蒹葭堂との間で、まず出来上がったと考えるのが妥当ではないかと思われます。


上田秋成         木村蒹葭堂 

 もし秋成もしくは蒹葭堂が隼人説について、他者の意見、例えば国学者等から意見をもらおうと考えたとしたら、最も可能性が高いのは藤貞幹ではないかと思われます。
 当時、貞幹は「金石文」の研究家として名が知られていました。さらに貞幹の業績の一つに元明天皇御陵碑の比定があります。元明天皇は晩年、自分の死後は、薄葬し「刻字之碑」を立てよと遺詔したことが『続日本紀』に見えるのですが、刻字之碑は長い間行方不明でした。貞幹は、江戸時代に土中から掘り出され、近くの奈良坂春日社(現在の奈良豆比古神社)に祀られている「函石(佐保姫神石)」こそ、この「刻字之碑」であると断じ、『奈保山御陵碑考証』(1769年)にまとめていました。まさに隼人石について意見をもらうにはうってつけの人物です。
 また、貞幹と言えば、秋成と本居宣長による「日の神論争」の発端となった人物です。貞幹が著した『衝口発』(1781年)に対して宣長が『鉗狂人』(1785年)で批判し、その宣長の批判に対して秋成は書簡で反論、さらに『鉗狂人評』(1786年)を発表したことで、論争へと発展していきました。
 二人は京都の本屋、佐々木春行(銭屋惣四郎)や大阪の文人でコレクターの木村蒹葭堂を通して知り合いであったことがわかっています。特に蒹葭堂は交友が広くコレクターとして高名であったため、珍品を携えて多くの知識人たちが訪れ、時に活発な議論を行うサロンを形成しており、二人は何度も蒹葭堂を訪ねています。1784年(天明 4年)に志賀島で漢委奴国王金印が発見された際、貞幹と秋成はそれぞれ『藤貞幹考』、『漢委奴国王佩印之考』を書いて自説を披露していますが、いくつかの点で共通した見解を述べています。おそらく、直接あるいは蒹葭堂を通して互いの意見を知り、それぞれが取り入れたものと思われます。ですから、隼人石について二人が意見を交流した可能性は十分考えられます。

 では、藤貞幹がどのように隼人説を受け止めたかを見てみましょう。
貞幹が、隼人石について書物に書き記したのは『好古小録』(1794年)が最初です(同じ年の『集古図』にも載せていますが、模写図があるだけです)。内容を詳しく見てみます。

元明天皇御陵碑
 … (御陵碑の図及び続日本紀の引用、さらに石碑発見の経緯) …
又御陵ノ上隼人ノ形ヲ鐫(ほ)ル石三枚立テリ。一ハ立チ、二ハ踞ス。
  隼人図
 第1石の図 (下図参照)
 第2石の図 (下図参照)
 第3石の図 (下図参照)
(藤貞幹『好古小録』1794年)
図12

 秋成以上に貞幹が隼人説を確信していたかのようなシンプルな説明です。まず、隼人石を「隼人ノ形ヲ鐫(ほ)ル石」と説明し、その写生図を大きく取り上げています。描かれた像は、実物とは微妙に違って頭はどれも「犬」になっており、狗人の形を彫った石という認識に引っ張られて描かれたような印象を与えます(第1石以外はそもそも石の表面の摩耗が激しく、特に顔のあたりはたいへん読み取りにくい状態であったとは思われますが…)。少なからず秋成との議論が影響しているのではないかと思われます。
 一方で、貞幹の『好古小録』には、秋成と異なるところがいくつかあります。
 第一は、隼人石の存在する場所です。
 貞幹は「元明天皇陵」の「陵上」に隼人石があると説明しますが、秋成は隼人石のある場所を「たいこくの尾」とし、「こゝは陵あまた立たせます所」であって、御陵とは言っていません。ましてや陵上に立っていたとは書いていません。
 貞幹の業績の中に元明天皇御陵碑の考定があること、貞幹が隼人石の拓本を有していたことについては先に触れましたが、貞幹は隼人石についておそらく1769年(明和6年)の函石調査の時に情報を得ていたものと思われます。そのため、函石と隼人石はともに元明天皇御陵の石造物だと思い込んでしまったのではないかと推測されます。
 また、同じ「隼人説」を採りながら、秋成が「隼人の音鳴き」に触れているのに対して、貞幹は隼人である根拠を示していません。ただ、このような態度は貞幹だけのことではなかったようで、蒹葭堂サロン等での議論は結論のみ共有され、途中経過は残さなかったようです。さらに『好古小録』は論説の書というより図録集的な書物です。隼人石の紹介が眼目であって長々とした解説は不要と考えたのかもしれません。
 ところで、この隼人石に関する議論はいつごろなされたのでしょう。秋成が大和・宇治に出かけた1782年から『好古小録』が刊行された1794年までの間であることは間違いないでしょうが、この10年ばかりのうちのかなり早い時期であったのでないかと考えています。その理由を、屋代弘賢や秋里籬島、覚峰阿闍梨の隼人説受け入れの過程を考えることで明らかにしたいと思います。


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