隼人石 -隼人説考-

11 隼人説は国学者のアイデア

 以上のように、国学者の間では、隼人が「犬人」という別名を持ち、吠声でもって宮中や天皇を守護していたという知識が共有されていたと考えられます。ただ、長らく「隼人」は忘れ去られていたため、その容姿や具体的なしきたりについては、独特な風俗を持つ古代の異民族といった程度の漠然としたイメージしかなかったと考えられます。ここに獣頭人身の像が隼人と結びついた鍵があるのではないかと考えます。つまり、国学者にはなまじっか知識があるために隼人の容姿は人間離れしているという先入観が生じ、犬と人間のキメラ的な像を簡単に隼人と結びつけてしまう素地があったと考えられるのです。
 上田秋成は、読み本作家として有名ですが、実際には俳諧や和歌の外、賀茂真淵の高弟加藤宇万伎に師事して国学を学び、多くの著作も残しています。中でも『万葉集』については、『楢の杣』や『金砂』といった評釈を残しており、隼人についてそれなりの知識を持っていたと考えられます。
 したがって、秋成が獣頭人身像を見て、これは狐ではなく犬だと直感した時点で、犬人=隼人を思い浮かべたのは自然な連想であっただろうと思われます。「隼人の音鳴き」という用語も先ほどの万葉歌とのつながりを感じさせます。ただし、秋成は日本書紀や延喜式までは調べなかったようです。なぜなら、『日本書紀』を丹念に調べると隼人が葬儀と関連する記事が見つかるのです。

大泊瀬の天皇を丹比高鷲原陵に葬りまつる。時に隼人、昼夜陵の側に哀号し、食を与へども喫はず、七日にして死ぬ。有司、墓を陵の北に造り、礼を以て之を葬る。
(『日本書紀』清寧元年十月)
三輪君逆、隼人をして殯の庭に相ひ距(ふせ)かしむ。
(『日本書紀』敏達十四年八月)

 一つ目は、雄略天皇が崩御した際、隼人が御陵で泣き続け、ついに殉死したという記事です。二つ目は三輪逆が、敏達天皇崩御の際、天下に乱れが起きぬように隼人を集めて殯宮を守らせたという記事です。ともに隼人説を唱えるにはぴったりの記事であるのに、秋成は万葉歌に残された狗吠にこだわって「御墓(みはか)づかへにはある事とも知らず」としてこれらの記事を無視しています。秋成が参考にしたであろう万葉集の注釈書では、先に紹介したように『延喜式』と『日本書紀』神代紀しか引用しません。秋成が清寧紀と敏達紀に触れなかったのはこの影響であると考えることができるでしょう。(『日本書紀』の注釈書類も、神代紀が中心で各天皇紀についてはあまり詳しく解説していないので、秋成が日本書紀について学んでいなかったというわけではないだろうと思いますが…)
 一方、「七狐の石ぶみ」という呼び名は、好古家たちが隼人石を「金石」や「碑文」の一つととらえていたことと符合します。秋成に拓本を見せた近藤某について詳細は不明ですが、好古家仲間の一人であったのでないかと思わせます。(近藤某は、近藤斎宮と名乗ることもあった高芙蓉かもしれません。)
 このように隼人説は、万葉集に詳しく、かつ好古家とも親交を持っていた秋成ならではのアイデアであったのではないかと考えます。


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