隼人石 -隼人説考-
10 狛犬と隼人
では、江戸時代の国学者たちは隼人の「姿」をどのようなものとしてイメージしていたのでしょう。
先ほど登場した季吟には『徒然草』を解説した『徒然草文段抄』(1667年)という著書もあり、その中で、高校の教科書でも取り上げられる段、「丹波に出雲といふところあり」に出てくる獅子狛犬を隼人の吠声と関連付けて説明しています。
獅子狛犬 是、神社にかぎらす禁中にも有。元日の節、御即位などに、隼人此しゝこまのうしろにて、犬の声をあげて、君を守り侍る事の延喜式に侍り。是、日本紀にいへる火闌降命の苗裔なり。此故に神社にしゝこまたつるも守護の心となり。
(北村季吟『徒然草文段抄』1667年)
説明から、季吟にとって隼人は番犬のごとく宮中を守る者としてイメージされていたことがうかがえます。この季吟の獅子狛犬=隼人吠声説は、広く受け入れられたようで、1700年代に入り、獅子狛犬が本来は几帳や扉の「鎮子(重し)」であったことが分かってくると、例えば、次の『徒然草奥儀抄』(高屋近文 1728年)などのように、むしろ、自説を述べる枕詞のように獅子狛犬=隼人吠声説が使われます。逆に言えば、それだけ獅子狛犬=隼人吠声説が根強く信じられていた証拠と言えるでしょう。
獅子狛犬は火闌降命の事より起りて禁門にも亦神社にも設けるよしなれど、其形犬にあらず獅子也。凡宮中に毎度屏風を立らるる事あり。其時にも屏風の下に置て動かざらしむる鎮子といふ物あり。金銅の獅子也。門前に儲るも闥(トビラ)を排(ヲシヒラ)く時をのれと閉ざらしむるの鎮子也。但狛犬の名状は火闌降命に従ふといへども其用は鎮子也。
(高屋近文『徒然草奥儀抄』1728年)
或書曰、こま犬の神前にあるは、隼人の意(こゝろ)なり。今も隼人犬吠をなすは、其事なりといへり。今按ずるに非也。神前にあるは戸前犬也。こまへのへの字を略せるにて、是神戸の前の犬なれば、こま犬といふ義也と先輩いへり。 …(後略)…
(寒川辰清『本朝四民本伝』1729年)
獅子狛犬ノ事、火酢芹命ノ故事ニハアラズ。ソレハ隼人ノ事ニテ犬声ヲ奏シ来ルマデナリ。 …(後略)…
(植松次親『神明憑談』1735年)
狛犬と隼人との関係はほかにも見つけることができます。
歌論書『八雲御抄』(順徳院 1240年ごろ)に、「隼人 いぬ人といふ」とあることを受けて、『異名分類抄』(入江昌喜 1783年)では、次のように紹介されています。
隼人(八雲)
いぬ人 神代巻云是(コゝ)ヲ以火酢芹(ホノスセリ)ノ命ノ苗裔(ノチ)諸隼人等今ニ至マデ天皇宮墻(ミカキ)之傍ヲ離ず。代々吠ユル狗(イヌ)ニテ而奉事(ツカフマツル)者也。云々。隼人ハ禁外門の警護なり。外門に銅の狛犬あり。大嘗会の日には其傍に居て犬吠の声をなすといへり。されば、犬人といふなるべし。延喜式に詳なり。
図11
いぬ人 神代巻云是(コゝ)ヲ以火酢芹(ホノスセリ)ノ命ノ苗裔(ノチ)諸隼人等今ニ至マデ天皇宮墻(ミカキ)之傍ヲ離ず。代々吠ユル狗(イヌ)ニテ而奉事(ツカフマツル)者也。云々。隼人ハ禁外門の警護なり。外門に銅の狛犬あり。大嘗会の日には其傍に居て犬吠の声をなすといへり。されば、犬人といふなるべし。延喜式に詳なり。
(入江昌喜『異名分類抄』1783年)

また、林子恕(林鵞峰のことか?)の手になる『御陵所考』(編者・成立年ともに不詳。『前王廟陵記』を引いているので1696年より遡らない)では、次のような記述が見つかります。
后考右大内陵 高市郡三瀬村檜隈川北東御所野材北石川村之南ニアリ。大陵ト称ス。陵奥ニ入ル事十間余、奥ニ石棺左右ニニツ相並、檜隈坂合之陵ハ是ヨリ一町南ニアリ。今欽明帝之陵ト云フ。先年、南都人何某夢告ニ依テ隼人形石体四ツ掘出シタリ。陵ノ四隅ニ所置ス。今一所ニ之ヲ置ク。
(林子恕編『御陵所考』1700年?以降)
明日香の猿石は、元禄15年(1702年)に欽明帝陵の西の水田から掘り出されたと伝えられる謎の石造物です。『御陵所考』の石体はおそらくこの猿石を指しているものと思われますが、その形を「隼人形」としています。隼人の姿を当時の人々がどのようにイメージしていたかを推測する手掛かりになりそうです。
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