犬石考
はじめに
那富山墓にある獣頭人身像の石造物の呼称は、江戸時代後期に「狐石」から「隼人石」へと変化する。その過渡期に登場する「犬石」という呼称は『大和名所図会』に始まるが、隼人説の中間生成物に過ぎない「犬」を名称に採用した経緯は不明である。
『大和名所図会』は、植村禹言の『廣大和名勝志』の未完の稿本を基にしているが、「犬石」とその周辺の項目については、稿本では欠巻となっている。秋里籬島はおそらく先行の地誌や案内記を参考に現地取材によってこの部分を書いたと思われる。このような事情から、犬石を含む見開き4頁に挙げられている33項目について、先行地誌・案内記の引用の仕方、追加情報や項立ての特徴などについて検討することで、「犬石」の出どころについて考察した。
結果として、取材の重視、石造物など好古への関心の高さなどが見えてきたことで、籬島が藤貞幹を意識していたのではなかろうかという印象を持つに至り、「犬石」の名称にも藤貞幹が間接的に関与したのではないかとの思いを強くした。


『大和名所図会』
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