隼人石 -隼人説考-

18 奈保山御陵碑考証

 杜本神社の「隼人石」は、拓本が流布していたことに関係しているのではないかと前節で論じましたが、貞幹が伊勢渡会の書家、蒔田喜兵衛(蒔田暢斎、必器)に宛てた手紙の中に隼人石の拓本のことが書かれており、拓本が多く出回ったことに藤貞幹が関係しているのではないかと思わせる内容なので紹介したいと思います。

一 道澄寺鐘銘先便ニ申入候者遠国へ参りいまた帰り不申候故友人中所持之本一部所望致し此度御間ニ合せ申候御落手可被下候外ニ空海詩藁墨本一帖隼人図二通御入用之由是又差出し申候隼人図ニは楢山碑を相添何方へも遣し申候元来同陵ニ被建候ものゆへ近来墨本も右之通一緒に致し出し申候左様思召可被下候
(藤貞幹「蒔田喜兵衛宛八月九日付書簡」 三村清三郎編『藤貞幹書簡集』(1933年))

下線部に「隼人図を二通ご入用とのことですから差し出します。また、隼人図には楢山碑(元明天皇御陵碑、函石)も一緒につけておきます」という内容が書かれています。そして、セットにする理由を隼人図と楢山碑とは同じ陵に立てられていたものなので、誰に頼まれても同じようにセットで渡していると説明しています。
 誰に頼まれてもということは、かなりの数を用意しているということでしょうから、これは原拓(実物から直接採った拓本)ではなく、模刻(原拓をもとに木版などで量産された印刷物)だと思われます。
 さらに、同じ手紙の別の箇所には次のような文面もあります。

一 宮城瓦譜二部道澄寺鐘銘一部三絶銘一部値銀〆卅匁六分此度金二百足被遣慥ニ落手仕候四分過之さし引書付別紙ニ相記し置申候
(藤貞幹「蒔田喜兵衛宛八月九日付書簡」 三村清三郎編『藤貞幹書簡集』(1933年))

どうやら、貞幹は模刻や模造品を売りさばいていたようなのです。
 先の隼人図も楢山碑とセットにして売っていたのでしょう。貞幹の生きた江戸中・後期は財を成した商人たちも好古趣味を持ち、金石文がかなりの高額で売買されていたようです。

 藤貞幹という人は存命中から現在に至るまで毀誉褒貶が入り混じり、大きく評価が分かれる人物です。
 焼失した内裏の修復のために裏松光世(固禅)が著した『大内裏図考証』は、貞幹なしにはできなかっただろうという公家の柳原紀光の証言が物語るように、膨大な収集品と研究への熱意で、貞幹は金石文の第一人者として一目置かれていました。近代の考古学者からも、「考古学史上中興開山ともいふべき人物」や「考古学の鼻祖」と評され、その考証手法が高く評価されています。
 一方、本居宣長の有名な批判だけでなく、当時から「奇説多き人」との評もあったようです。特に眉唾でみられていたのが「奈保山御陵碑」です。
 まず、貞幹の「奈保山御陵碑考証」を見てみましょう。

乃楽善城寺内有古碑。数十年前善城寺西三町許山崩所出而移立于此云。俗呼函石、因其所出之地曰函石谷。己丑夏四月、貞幹遊乃楽、即就碑下観其文字、剥蝕可読者不過五六字、竟不知何碑也。摸(莫の下に手)摺一本而帰、日夜展翫過一年余纔得読十之七八、而攷之、則与嘗所伝聞東大寺要録所載元明天皇奈保山<続日本紀作椎山、延喜式作猶山>御陵碑文无異、而此碑制亦与要録所載之図相符、則奈保山御陵碑无可疑者、然則此碑所出之地、亦不問可識矣。〇続日本紀養老五年十月丁亥太上天皇<謚元明>詔曰謚号称其国其郡朝廷馭宇天皇流伝後世。貞幹按此碑之書法即依此詔者審矣。〇続日本紀養老五年十月庚寅太上天皇詔曰云々、喪地者皆殖常葉之樹、即立刻字之碑。貞幹按先王御陵凡无有碑、而椎山御陵立此碑者疑依此詔爾。東大寺要録添上作御谷、宇作岑、洲作剣、朔作揆、於義不通。是以伝聞之誤、或要録亦此碑剥蝕之後所摸(莫の下に手)而偶為魯魚歟。是其所也下、依碑似有数字、雖然既亡不可読、亦无可拠、可歎也。
明和七歳次庚寅六月廿二日 左京藤貞幹謹識
御陵碑図 碑石長三尺濶二尺余厚一尺

 
 
 
  
   
   

(藤貞幹『奈保山御陵碑考証』1769年)

 貞幹自身が告白するように最初はほとんど読めなかったものが、一年ほどの間に十七八文字読めるようになったというのは、都合がよすぎると言われてもしかたないでしょう。
 江戸後期の考証家、狩谷えき斎(「えき」は木偏に夜 以下同じ)は、『好古小録』の「元明天皇御陵碑」について次のように「贋作」と断じています。

えき斎云、今剥落シテ一字存セズ。只碁局丈アルノミ。貞幹ガ摸(莫の下に手)刻ハイマダ剥落セザル巳前ノ搨本ヲ以テ摸シタリト云ヘリ。今取テ試ニ碑本ニ比校スルニ剥落ストイヘドモ一画ノ似タル所ナシ。イカ様ニ剥落ストモ一字一画ノ髣髴ハ必有モノナルニ如此ヲ以考レバ貞幹、東大寺要録ニ此文ヲ載タルニ据テ偽作セシモノ也。
(狩谷えき斎『好古小録攻正』)

さらに、『古京遺文』でも、隼人石ともども「存録」しないとわざわざ断わっています。

… 此の他、元明天皇御陵碑有り。剥落して一字も存する無し。及び、狗装隼人像 …中略… 疑い並び後人の為に記すも今亦存録せず。  ※原文は漢文
(狩谷えき斎『古京遺文』1818年)

伴信友も『比古婆衣』の中で、現在一字も読めない碑文の拓本が存在するのは「疑はし」とし、

いま世にある碑文の拓本は、さかしら人の要録なる文を訂し改めて、ものしたる物なることも著明(あきらか)なり。
(伴信友『比古婆衣』1861年)

と名指しはしないものの贋作説を唱えています。
 想像の域を出ませんが、貞幹が隼人図に楢山碑を抱き合わせたのは、碑文贋作疑惑の影響かもしれません。
 さらに想像をたくましくすると、本居宣長が『衝口発』に激怒したのも、内容の杜撰さに加えて、怪しげな模造品や模刻を売って儲けている貞幹の態度に対する怒りもあったのではなかったかと思われます。


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