隼人石 -隼人説考-
18 奈保山御陵碑考証
杜本神社の「隼人石」は、拓本が流布していたことに関係しているのではないかと前節で論じましたが、貞幹が伊勢渡会の書家、蒔田喜兵衛(蒔田暢斎、必器)に宛てた手紙の中に隼人石の拓本のことが書かれており、拓本が多く出回ったことに藤貞幹が関係しているのではないかと思わせる内容なので紹介したいと思います。
下線部に「隼人図を二通ご入用とのことですから差し出します。また、隼人図には楢山碑(元明天皇御陵碑、函石)も一緒につけておきます」という内容が書かれています。そして、セットにする理由を隼人図と楢山碑とは同じ陵に立てられていたものなので、誰に頼まれても同じようにセットで渡していると説明しています。
誰に頼まれてもということは、かなりの数を用意しているということでしょうから、これは原拓(実物から直接採った拓本)ではなく、模刻(原拓をもとに木版などで量産された印刷物)だと思われます。
さらに、同じ手紙の別の箇所には次のような文面もあります。
どうやら、貞幹は模刻や模造品を売りさばいていたようなのです。
先の隼人図も楢山碑とセットにして売っていたのでしょう。貞幹の生きた江戸中・後期は財を成した商人たちも好古趣味を持ち、金石文がかなりの高額で売買されていたようです。
藤貞幹という人は存命中から現在に至るまで毀誉褒貶が入り混じり、大きく評価が分かれる人物です。
焼失した内裏の修復のために裏松光世(固禅)が著した『大内裏図考証』は、貞幹なしにはできなかっただろうという公家の柳原紀光の証言が物語るように、膨大な収集品と研究への熱意で、貞幹は金石文の第一人者として一目置かれていました。近代の考古学者からも、「考古学史上中興開山ともいふべき人物」や「考古学の鼻祖」と評され、その考証手法が高く評価されています。
一方、本居宣長の有名な批判だけでなく、当時から「奇説多き人」との評もあったようです。特に眉唾でみられていたのが「奈保山御陵碑」です。
まず、貞幹の「奈保山御陵碑考証」を見てみましょう。
明和七歳次庚寅六月廿二日 左京藤貞幹謹識
御陵碑図 碑石長三尺濶二尺余厚一尺
三 | 冬 | 養 | 所 | 太 | 之 | 大 |
日 | 十 | 老 | 也 | 上 | 宮 | 倭 |
己 | 二 | 五 | 天 | 馭 | 国 | |
酉 | 月 | 年 | 皇 | 宇 | 添 | |
葬 | 癸 | 歳 | 之 | 八 | 上 | |
酉 | 次 | 陵 | 洲 | 郡 | ||
朔 | 辛 | 是 | 平 | |||
十 | 酉 | 其 | 城 |
貞幹自身が告白するように最初はほとんど読めなかったものが、一年ほどの間に十七八文字読めるようになったというのは、都合がよすぎると言われてもしかたないでしょう。
江戸後期の考証家、狩谷えき斎(「えき」は木偏に夜 以下同じ)は、『好古小録』の「元明天皇御陵碑」について次のように「贋作」と断じています。
さらに、『古京遺文』でも、隼人石ともども「存録」しないとわざわざ断わっています。
伴信友も『比古婆衣』の中で、現在一字も読めない碑文の拓本が存在するのは「疑はし」とし、
と名指しはしないものの贋作説を唱えています。
想像の域を出ませんが、貞幹が隼人図に楢山碑を抱き合わせたのは、碑文贋作疑惑の影響かもしれません。
さらに想像をたくましくすると、本居宣長が『衝口発』に激怒したのも、内容の杜撰さに加えて、怪しげな模造品や模刻を売って儲けている貞幹の態度に対する怒りもあったのではなかったかと思われます。
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