隼人石 -隼人説考-

19 隼人説誕生のまとめ

 以上、隼人説の誕生から定着までを考えてみました。
 まとめると、隼人説が定着するまでには三つの段階があったのではないかと思われます。
 蒹葭堂などの上方の文化人サロンや好古家たちの間で話題になっていた「狐石」(火付け役はやはり藤貞幹でしょうか。)について、上田秋成が隼人の像だと言い出したのが第一段階です。秋成が蒹葭堂と議論したのは秋成の大和・宇治旅行の前後であっただろうと推測されます。そして間を置かず、二人は自説について藤貞幹に意見を求め、貞幹も隼人説に賛成したのではないかと思われます。
 その後、隼人説は藤貞幹の拓本によって「元明帝陵の隼人図」として紹介され、好古家の間で広まり定着したのでしょう。これが第二段階です。秋里籬島が『大和名所図会』を執筆したのは、隼人説が好古家の間でしか認知されていなかった、この時期だったのではないかと思われます。
 第三段階は、籬島の『大和名所図会』が評判になり、世間に広く認知された段階です。この時に「犬石」という名称も一緒に広まったのでしょう。覚峰が拓本の一つを手に入れ、模造品を作るとともに、調べた結果を『奈保山山陵隼人石人考』にまとめたのもこの時期ではないかと思われます。

 最後に年表と人物相関図を掲げておきます。


【年表】

1762年(宝歴12年)藤貞幹(31)「御陵所考」書写
1770年(明和 7年)藤貞幹(39)「奈保山御陵碑考証」
1776年(安永 5年)上田秋成(43)『雨月物語』
1780年(安永 9年)秋里籬島(45?)『都名所図会』
1781年(天明 1年)藤貞幹(50)『衝口発』
1782年(天明 2年)上田秋成(49)『山づと』
植村禹言没『広大和名勝志(未完)』
1784年(天明 4年)藤貞幹(53)『藤貞幹考』
上田秋成(51)『漢委奴国王佩印之考』
1786年(天明 6年)上田秋成(53)『鉗狂人評』
1791年(寛政 3年)秋里籬島(56?)『大和名所図会』
1792年(寛政 4年)屋代弘賢(35)大和調査に藤貞幹(61)同行
屋代弘賢(35)『道の幸』
1793年(寛政 5年)屋代弘賢(36)『金石記』
1794年(寛政 6年)藤貞幹(63)『好古小録』『集古図』
1796年(寛政 8年)秋里籬島(61?)『和泉名所図会』
1797年(寛政 9年)秋里籬島(62?)『東海道名所図会』
藤貞幹(66)『好古日録』
1798年(寛政10年)秋里籬島(63?)『摂津名所図会』
覚峰(70)『奈保山山陵隼人石人考』
1800年(寛政12年)松平定信編『集古十種』屋代弘賢(43)
1801年(享和 1年)秋里籬島(66?)『河内名所図会』
1808年(文化 5年)蒲生君平(41)『山陵志』



【人物相関図】


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