「人生、方向転換するなら今です。」
貝塚聖書教会牧師 池尻良一
私は牧師になって37年になります。その間、随分と多くの方々と関わってきました。
場合によっては相談に来られる方々に、人生の方向転換を強くお勧めすることもありましたが、時には、それに不愉快な面持ちになられる方もいました。どうしてかと後から考えると、自分の今までの行き方を一介の牧師に否定されたように感じられ、不機嫌になられたようです。
人の心とはとても硬く、難しいものです。
<人は変わらない?>
聖書にはこんな言葉があります。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。
だれが、それを知ることができよう」
人の心には、自分を変えてまで何かを知りたい、行いたいとは思わない気持ちが根強く居座っているようです。ところがそれでいてもう一方では、「どうして自分の人生はこうなんだろうか」、「どうして自分の家族はうまくいかないのだろうか」と悩むのです。人とは一筋縄ではいかない矛盾した存在のようです。
しかしこれだけははっきりしています。仮にそうであっても人は自分が変わらない限り、何も変わらないのです。ではどうすればいいのでしょうか。何が必要でしょうか。
<会話ではなく対話を>
私は携帯電話を持っていません。その所為か、駅のプラットホームなどで若者たちが一斉に電話をしている様子を見て驚くことがあります。
どうしてあんなに時間を惜しむように電話しなければならないんだろうか、と。
これは私の勝手な想像ですが、恐らく用件があるから電話をするのではなくて、電話で会話することで心の寂しさを紛らわしているのではないでしょうか。
自分が今の年齢になって分かるのですが、会話は確かに気休めになり、生活手段としても不可欠です。会話がなくては誰も生きていけないでしょう。ところがそれを幾ら積み重ねてみても自分の心に何も届かない、そうしたことも実感するのです。「会話」があっても、自分の心を動かす「対話」になっていないからではないでしょうか。
<対話によって変わる生き方>
人は真実な「対話」を経験しない限り変わらない、私はそう確信しています。
聖書にはそうした「対話」があります。世の中には万巻の書があり、優れた書物は人を励まし、養ってきました。
ところが聖書はそれらと違って、読む者に人生の方向転換を促す「対話」を生み出してくれるのです。
こんな言葉が聖書にあります。
「わたし、主が心を操り、思いを調べる」
このように聖書は私たちに問いかけをして私たちの応答を待つのです。
<私は変わりました>
「すべて、疲れた人、重荷を背負っている
人は、わたしのところに着なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます」
これは私が神と「対話」するきっかけになった記念すべき言葉です。
そしてその「対話」は、冷淡で自分勝手だった人生の方向転換を与え、再出発を導いてくれたのです。
私は今も神との「対話」に支えられ、感謝しながら日々歩んでいます。