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人生、手放すべきもの

 貝塚聖書教会牧師 池尻良一

 私は団塊の世代ですが、その年のわりには髪の毛が多く、あまり白くもなっておらず、その点自信がありました。ところが先日ある方から「後ろのほうが、薄くなってきたなあ」と言われ、いささかショックを受けました。鏡を見ると確かにそうです。しかし考えてみれば年令とともに白くなったり、薄くなったりするのは当たり前で、それは特段驚くようなことでもありません。ある方が言いました。年とともに増えるのは3Sばかり。「シミ、シワ、シラガ」、まことにその通りです。

もっともそれを受け入れられないと、人はにわかに高級化粧品を求めたり、肌を若返らせる薬品があると聞くと、少々値が張っても無理をしたり、また若さを保つためあの手この手を尽くします。年令から来ることに抵抗するのはとうにあきらめている私には、そのいずれも余り縁がありません。しかし老いる心境の寂しさを考えると、まあ、それ位はいいのかなあ、と同情したりもしています。ただ私の場合、どうしても老いたその先のことが気になり、それで憂鬱になります。

「人生、手放すべきもの」、確かに年を重ねると、若さや持ち物、場合によっては家族も自分の手から放すことになります。しかしそれだけでしょうか。誰にも自分のいのちと別れを告げる時が訪れます。これは誰にとっても未曾有の重大問題です。

聖書にこんな言葉があります。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」。

もしこの言葉の通りだとしたら、あれもこれも手放す寂しさ、いのちを手放す不安、それだけではなくて、人生にはその先にとてつもない恐怖が控えていることになります。「生老病死」という言葉があります。生くるも苦、老いるも苦、病むも苦、死も苦。ところがその先にもっと恐ろしいことが待ち受けているというのです。果たしてそれはどういうものでしょうか。

教会の十字架には二種類あるのをご存知でしょうか。一つは縦が横より長いもの、もう一つは、縦横同じ長さのものです。前者はイエス・キリストの苦悩を象徴し、後者は復活を象徴すると言われています。イエス・キリストが味わった苦悩、実はこれに私たちを待ち受けている死の先の恐怖がどういうものか、暴き出されています。どういうことでしょうか。 

よく聞く質問に、イエス・キリストは十字架上で死んだと言われるが、一体何のための死だったのか、というのがあります。その質問の意味は良く分かります。私たちは国を救うため命を捨てた人を知っています。貧しい人たちのため、自分の人生を捧げ切った人のことも知っています。しかしイエス・キリストの死はそのいずれとも違いました。ではそれは何のためだったのでしょうか。イエス・キリストは十字架上の断末魔の苦しみの中、こんな言葉を吐かれました「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」。これはヘブル語ですが、その意味は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です。イエス・キリストの苦悩、それは残虐な十字架による肉体の苦痛よりかは、ご自身が神に見捨てられたことによるものでした。そしてこれが私たちを死の先で待ち受けているものなのです。イエス・キリストは私たちに先回りして、私たちに代わって「神に捨てられる」をお受けになられたのです。

私たちの人生、すべてを手放したその先に、神に捨てられる、という最も恐ろしい事態が待ち受けています。イエス・キリストは私たちをそこから救い出そうとして、あの十字架の苦悩を味わい、死に赴かれました。この救いはすべての人のため準備されました。洋の東西を問わず、すべての人のために、です。ただ一つだけ条件があります。それはそこに入るため、その入り口を入るのに邪魔になるものを手放さないといけないのです。

昔の修道院にまつわる話を聞きました。そこでは食堂に入るため、大変に狭い入り口を通らないといけないというのです。そのため肥満になると、入り口を通れなくなり、痩せるまで食事はお預けということになります。「メタボ」が話題になる昨今、耳の痛い話です。イエス・キリストによって備えられた処、誰もが招かれている場所ですが、そこに入るため、せめてその入り口を通れるだけスリムになる必要があります。私たちの人生、色々なものを手に入れ、身を太らせて来ましたが、今度はそれを手放すことが求められているのです。これは考えてしかるべき課題のはずです。聖書にこんな言葉があります。

「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい」。

私たちには、日頃から手放さないといけないと考えながら、その手に持ち続けているものはないでしょうか。罪に汚れた幻を心に抱き続けながら、それを包み隠すのに必死になっているようなところはないでしょうか。誤解のないように、何も完全になれとか聖人になれとか言っているのではありません。ただ少なくとも私たちが、すべてのものを手放したその後も生き残ることが出来るためには、必要最低限度の努力を惜しまず、心身ともにスリムになる必要があるのです。

 アンドレ・ジードの有名な小説に『狭き門』があります。聖書はこう言います。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」。

5月のお花

過去のメッセージ

2008.3-4月掲載分「今の時を生かして用いる」
2008.1-2月掲載分「尽き果てる人生の望み」
2007.11-12月掲載分「平凡で満ち足りた人生」
2007.10月掲載分「一人で悩まないで下さい」
2007.8-9月掲載分「思い煩いからの解放」
2007.6-7月掲載分「目を覚ましなさい」

      
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