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メッセージ

「目を覚ましなさい」

 貝塚聖書教会牧師 池尻良一

 私事で恐縮ですが昨年、妻が入院しました。途端に生活に支障をきたしたのは言うまでもありません。特に食事の準備が大変でした。それでも娘と二人、何とかやっていました。その経験で気付かされたのは、食事は、作ってもらって食べていたのだなあという、当たり前のことでした。

 主婦は日頃から夫のため、子どものため、家族のため愛情込めて台所に立ちます。しかしこのことはよくよく考えてみると、大変にデリケートな性格のものです。というのはもし夫婦関係、親子関係に亀裂でも入ったりすると、すぐにも主婦は食事を作る意欲をなくしてしまい、場合によってはその務めを放棄することにだってなりかねないのです。一家の主婦の、心の微妙な動きは、食卓に影を落とし、家族一同、砂を噛むような思いで箸を口に運ぶことにもなってしまいます。

 娘は入院した母親のことを、「お母さん、かわいそう」と言いました。妻は以前にも大病をし、入院したことがあるからです。私はその言葉を聞いて、心にほろっとするものを感じました。そんな風に家族を思いやれるのは、何にも代えがたいことだし、これこそ大事にしないといけないものだと痛感しました。

 聖書にこんな言葉があります。

 「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」

 これは名言です。確かに今の世の中、億という財産を持っている人や、セレブと呼ばれる階層の人は、誰の目にも輝いて見えるかもしれません。しかしどんなに豊かでも、その心に憎しみや不信の火種を抱えたままの生活がどれほど不安定か、誰もが想像して分ることです。それともそんな風に考えるのは、そうした生活と無縁な私のひがみでしょうか。

 私たちは自覚しています。夫婦、家族が壊れていくのはお金が足りないことよりも愛情や誠実が不足し作動しなくなっているためであることを。ところが誰もがそれを自覚しながらそのままにしているのです。果たしてそれでいいのでしょうか。

 色々な意見があるでしょうが、これだけは確かです。たとえ貧乏でも、家族がお互いを愛することに懸命になっていると、何が不自由でもそれでもって欠乏感を抱くことなく、又我慢も出来るのです。しかしそれとは反対に豊かで快適であることに心が奪われていると、何をどれほど持ったとしても、家族の中に、耐震装備のない家に住んでいるような不安定感がなくならないのです。これは事実です。

 五世紀の偉大な思想家アウグステイヌスはこんなことを言っています。
「人間はすべて去ってゆく。あなたの幸福を失うかもしれないものに依存させてはいけない。」

 お金を罪悪視しているのでも頑張って生活することを否定しているのでもありません。しかし目を覚まして頂きたいのです。大事なことは何を第一にするのかという優先順位であることに。

 知的障害者であるAさんが障害者の施設を出ることになりました。職員は彼が世の中に出ても困らないよう、色々なことを一生懸命教えました。中でもお金の種類を熱心に教えました。それで彼の前に一円玉から五百円玉まで並べて職員はこう聞きました。「この中で一番大切なお金はどれ?」。ところが彼は何回聞かれても五百円玉でなく十円玉を指差すのです。その理由はこうでした。「これでお父さんの声が聞こえるから」。施設にいる頃から、お父さんに電話をするのが彼の楽しみだったのです。人が一番求めているのは、愛して欲しい、優しく声をかけて欲しい、そういうことでしょうか。飾らないAさんの言葉はそれを証明してくれているようで切ないものがあります。

どうか目を覚まして自分は、本当は何を必要としているかに気付いて下さい。イエスはこう言われました。

 「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」。

「一つだけ」、それが何かご一緒に考えてみませんか。

7月のお花

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