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メッセージ

平凡で満ち足りた人生
〜マタイの福音書6章33、34節から〜

 貝塚聖書教会牧師 池尻良一

 

 中学生時代、将来の夢について作文を書くようにと言われたことがありました。その折私は、「平凡な人間になりたい」と書き、それが職員会議で話題になったそうです。
 こういう題だと、普通は、「〜になりたい」と、将来の職業や夢について書くものなのに、「平凡な人間になりたい」とはどういうことか、何か私生活に問題があるのではないかと、先生方が色々心配されたようです。
 今振り返ると何であんなことを書いたのか、私は少々不思議な気がしています。


 ひと口に「平凡」といっても、その意味は多様です。私が「平凡な人間になりたい」と言ったのは、家で争い事がなく、お金の心配がなく、隣近所の家のように家庭が平和であれば、後は将来適当な職につければそれで十分幸せ、それぐらいのことでした。
 しかし生きる意欲のある人は、恐らくそんな平凡な生活にはあきたらなくて、人並み以上の生活が出来て、能力を発揮し、幾らか有名にもなりたい、そう考えるのではないでしょうか。世の中、平凡をさげすむ人もいればそれにあこがれる人もいます。色々です。しかし私の限られた経験で言えば、恐らく平凡な人もそうでない人も、人の本質という点ではそんなに違わないように思います。それは社会で起る様々な出来事に見られる人間模様からも分ります。ところが私たちはそうは分っていても中々割り切れず、相変わらず人よりも優れた持ち物を追いかけ、それを手に入れないことには生きている値打ちがないかのように考えがちです。確かに世の中、何かにつけて優劣が問われ、お互いそこで辛い思いを味わっているのは事実です。
 昔、朝日新聞の四コマ漫画で不二三太郎というのがありました。ある日、次のような内容のものが掲載されていました。それは地球が滅亡するという話です。そこで「ノア」というロケットが準備され、聖書の、ノアの洪水のように、動物が、一つがいずつそれに乗り込みます。そこで三太郎夫婦も乗ろうとすると、「良いつがいだけです」と言って断られたというものでした。それが何ともリアルで、私は笑いたくても笑えない、そんな気分を味わいました。
 私たちは世の中にはこうした現実があるのを知っているので、先ほど述べたように、人間の本質に違いがないと知りつつ、いつも自負と引け目の間を揺れ動いているのです。確かにこうした現実は否定できません。しかしそれでも、果たしてこれでいいのだろうかと、いう疑問が頭をもたげてくるのを私は止めることが出来ません。


 私は多くの方々の葬式を行ってきました。その経験から、果たして幸いな人生とはどういうものか、考えさせられてきました。確かに存命中は、人の仕事ぶりや業績が評価の対象になります。しかし不思議なことですが、その人が亡くなると、むしろ生前の人物像、人柄に話題が集中します。具体的には、死んだ人がどれほど優秀であっても、その人が優秀だからというので泣く人は少ないのです。むしろ死んだ人がどんなに平凡な人であっても、その人がどれだけ多くの人を慰め、励ましていたか、そのことで多くの涙が流されるのです。これは私たちが自分の人生を考える上の大きなヒントになります。どういう人生を歩むかは人それぞれです。問題はどういう人生を歩むにしても、自分はどういう人間になるのか、それが重要課題なのです。
 「使徒の働き」9章36節以下に女の弟子、タビタの死について記されています。彼女は無名の人でした。ところが彼女が死んだ折の光景が次のように描かれているのです。「ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカス(タビタ)がいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった」(39)。やもめは家庭的、社会的に不遇な人たちです。タビタは生前そうした人たちを励まし、慰めていたのでしょう。その彼女が死に、女たちはタビタの手作りの下着、上着をもって涙ながらにペテロにその悲しみを訴えました。もしかすればそこに流された涙は、どんな偉大な人の死に際して流されたものよりも多かったかもしれません。私は何も非凡な才能を持つ人を軽視し、同情豊かな人を持ち上げているのではありません。そうではなくて、ここで申し上げたいのは、平凡、非凡関係なく、人には人として持たなければならない共通の重要な世界がある、ということなのです。それは、自分は人に対してどんな人間だったか、人としてのあり方に関することなのです。 ところが私たちは自分の名をあげることに思いを馳せると、誰もがそうした世界を切り捨て、あまつさえ自分には能力があるからそれを捨てる権利さえあるかのように錯覚してしまうのです。
 皆さん、人は人に役立つことを目的に造られています。人は人を愛するために造られています。人は神に役立つために造られています。そこを外すと、人生、どんな手柄を立てても御破算になってしまうのです。御破算とはあの算盤の御破算のことです。算盤におかれた数字がどれほど大きなものでも、一切がゼロになるのです。誰もがその現実に直面するのにそんなに時間はかかりません。お互い限られた人生を生きているのです。


 33節をお読みします。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。ここには人が何を求めるかではなく、まず第一に何を求めるべきか、その順序が強調されています。つまりあなたが一生懸命に生きているのに、そこに満ち足りた様子もなく、いつもぎすぎすし、荒々しくなっているのは、何を第一に求めるか、その生活順序が間違っているからだと言うのです。
 ではイエスが言うまず第一に求めるべき神の国とその義とは何でしょうか。私は、それは先に述べた「人に役立つこと、人を愛すること、神に役立つこと」ではないかと考えています。私たちの人生を満ち足りたものにするのは、競争に勝った賞金、賞品、ご褒美ではないのです。スイスの法学者ヒルティは彼の『幸福論』でこんなことを言っています。「神と調和をたもち、すべての人にたいして愛ゆたかに生きようと決意したならば、そのときあなたはずいぶん苦しい目にあっても、かならず添いくる幸福の実感によってしっかりささえられるであろう」。
 皆さん、この言葉は人生を極めた人の言葉で、学者の抽象論ではありません。私たちも自分の中から虚飾を除くなら、この言葉、大いに賛同できる点があるのではないでしょうか。あなたは自分の人生、今のままで行くとどうなるか、どんな風に予測されますか。私たちは自分の現実に目を据えて、その辺りよくよく考えてみなければなりません。こういう話をすると、ある方はそんな悠長なことを考えていると、人生遅れをとる、そう反論されるかもしれません。いや、そんな考えで果たしてやっていけるのかと案じられるかもしれません。実はイエスはその辺りのことをよく承知しておられました。それでこう言われたのです。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34)。6章にはこの「心配」が数多く出てきます。25,27,28,31,32節です。私はこの「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」を次のように理解しています。「あなたはその心配があるので神を信じられないのか。だったらその心配は無用。『神の国とその義とをまず第一に求めなさい』。これを中心に自分の人生を組み直してごらん。そこには必ず喜びが湧き上がる。生活のことだったら心配しなくてよい。神であるこのわたしが、わたしの言うとおりにする者を辱しめることはない。このわたしを信じて、生活をやり直してごらん」。神は私たちにこう語っておられるのです。
 人生はよくマラソンにたとえられます。42.195`、とてつもなく長い距離です。しかしこの長い道のりも必ずゴールに行き着きます。果たして私たちは自分の人生、どこをゴールに目指しているのでしょうか。悲惨なのは途中のしんどさではありません。そうではなくて、散々しんどい思いをしたのに、ゴールを間近にして道を間違えたことに気付くことです。その結果は余りにも辛すぎます。皆さん、神はあなたに、たとえその人生が平凡なものであっても、心底満ち足りたものとなるよう、必要な道筋を付けて下さっています。それは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」です。人生、重要なのは何にプライオリティーを持たせるか、なのです。

12月のお花

過去のメッセージ

2007.10月掲載分「一人で悩まないで下さい」
2007.8-9月掲載分「思い煩いからの解放」
2007.6-7月掲載分「目を覚ましなさい」

      
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