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メッセージ

尽き果てる人生の望み
〜ルカの福音書6章46−49節から〜

 貝塚聖書教会牧師 池尻良一

 

 私の知人が「ボケるのも神様の恵み」と言うのを聞いて驚いたことがありました。彼はどういう意味でそう言ったのでしょうか。それは「ボケることで、死の恐怖を免れられる」からだと言うのです。確かにそうかもしれません。しかし当の本人はともかく、そうなると周囲が大変です。人生、最後はボケたい、そう考える人がいるかどうか。私はそんなことを考えていて、何かしら人生って、一見意気揚々としていながら、どこかそこにはわびしいものが流れているようで寂しさを感じます。


 昔、こんな話を聞いたことがあります。人生、何をどれほど貯め込んでも、それに<ゼロ、即ち、死>をかけると、結果はゼロになる、というものです。なるほどうがった話です。しかし私はその話に反発したい気持ちになりました。どうしてかと言うと、物事そんなに単純じゃないからです。何をするにも努力と才覚、そして計画が必要です。また苦しい人間関係もこなして行かなければなりません。それを<ゼロ、死>をかけたらどんな人生もゼロになるなんて、人生そんなに簡単ではないと思ったのです。誰もが皆、頑張りたい、そして充実感を得たいと考えています。確かにそれが人生そのものなのです。ところがよくよく考えてみると、確かに人生には頑張りだけでは対応出来ない不気味な要素が控えているのも事実なのです。それは何でしょうか。それは間違いなく生に連続する死です。これに抵抗できる人は古今東西、どこにもいません。そうすると先ほどの話ですが、<ゼロ、死>をかけるとゼロになる、これもあながちたわごととして切り捨てるわけにもいかないのではと思えて来ます。ご存知の作家、山本有三はこんなことを言っています。「たった一人しかない自分を たった一度しかない人生を 本当に生かせなかったら 人間に生まれてきた かいがないじゃないか」。これを読んで、私は本当にそうだと思いました。こう考え、頑張らないと、とも考えました。しかし少し間をおいたその後で、私は「人生を本当に生かす」ってどういうことなのだろうかと考え込んでしまったのです。というのは、生まれながらの条件で自分の考え通りに行かず、苦しんで生涯を送る人は大勢いますし、道半ばで志を折らないといけない場合も珍しくありません。ましてや不本意ながらも死に赴く結末を想うと、「人生を本当に生かす」は、とても難しい課題に感じられて仕方ありません。この現実に頬かむりしたままでは、誰も本当はどこにも出発出来ないのではないでしょうか。「尽き果てる人生」、私たちの肩には、絶えずこの重い課題がのしかかって来ます。果たしてどうすればそれを乗り越えられるのでしょうか。


 私は多くの方々の葬式を行ってきました。その経験から、果たして幸いな人生とはどういうものか、考えさせられてきました。確かに存命中は、人の仕事ぶりや業績が評価の対象になります。しかし不思議なことですが、その人が亡くなると、むしろ生前の人物像、人柄に話題が集中します。具体的には、死んだ人がどれほど優秀であっても、その人が優秀だからというので泣く人は少ないのです。むしろ死んだ人がどんなに平凡な人であっても、その人がどれだけ多くの人を慰め、励ましていたか、そのことで多くの涙が流されるのです。これは私たちが自分の人生を考える上の大きなヒントになります。どういう人生を歩むかは人それぞれです。問題はどういう人生を歩むにしても、自分はどういう人間になるのか、それが重要課題なのです。
 「使徒の働き」9章36節以下に女の弟子、タビタの死について記されています。彼女は無名の人でした。ところが彼女が死んだ折の光景が次のように描かれているのです。「ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカス(タビタ)がいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった」(39)。やもめは家庭的、社会的に不遇な人たちです。タビタは生前そうした人たちを励まし、慰めていたのでしょう。その彼女が死に、女たちはタビタの手作りの下着、上着をもって涙ながらにペテロにその悲しみを訴えました。もしかすればそこに流された涙は、どんな偉大な人の死に際して流されたものよりも多かったかもしれません。私は何も非凡な才能を持つ人を軽視し、同情豊かな人を持ち上げているのではありません。そうではなくて、ここで申し上げたいのは、平凡、非凡関係なく、人には人として持たなければならない共通の重要な世界がある、ということなのです。それは、自分は人に対してどんな人間だったか、人としてのあり方に関することなのです。 ところが私たちは自分の名をあげることに思いを馳せると、誰もがそうした世界を切り捨て、あまつさえ自分には能力があるからそれを捨てる権利さえあるかのように錯覚してしまうのです。
 皆さん、人は人に役立つことを目的に造られています。人は人を愛するために造られています。人は神に役立つために造られています。そこを外すと、人生、どんな手柄を立てても御破算になってしまうのです。御破算とはあの算盤の御破算のことです。算盤におかれた数字がどれほど大きなものでも、一切がゼロになるのです。誰もがその現実に直面するのにそんなに時間はかかりません。お互い限られた人生を生きているのです。


 イエスに言わせると大方の人の現状は次のようになります。「あなた方は気が多すぎる。あっちに聞き、こっちに聞き、結局は自分の思い通りにしようとしている。そこにどんな望みが生まれるというのか。このわたしはあなた方の人生に責任を持つ。但し、それはあなた方がわたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう覚悟が条件である」。イエスは私たちの尽き果てる人生に望みを確約して下さいます。しかし事の重大さを考えるなら、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう」、その条件に曖昧さは認められないと言われるのです。イエスはその辺りのことを教えるため、次のたとえ話をお語りになりました。要点は二つです。一つは、イエスのことばを聞いて行なう人は、岩を土台に建てた家のように、洪水が押し寄せてきて揺さぶられても倒れない。もう一つは、イエスのことばを聞いてもそれを行なわない人は、土台なしに建てられた家のように、洪水が押し寄せるとひとたまりもない。皆さん、人生は外見上如何に順風満帆であっても、洪水、津波が来るように揺さぶられることは避けられません。どうしてこんな苦しい目にあわないといけないのかと思えるほど苦しいこともあります。又生に連続する死の問題を考えると、息が詰まるような閉塞感を味わいます。しかし問題はそうした洪水、津波が押し寄せることではなく、押し寄せた時、それに耐えられる土台を得ているかどうかなのです。イエスは私たちにその土台を与えると言われました。そしてその土台に立つなら、耐えられると言われたのです。その土台が何であるかは既に述べた通りです。大分以前、東京大学の工学部長をしておられた菅野猛氏のお父さんは、戦中ホーリネス教団の牧師をしておられました。当時ホーリネス教団はこの国によって弾圧され、多くの牧師は獄に投じられました。厳しい拷問のため中にはそこで命を果てた人も少なからずおられました。菅野氏のお父さんも拷問で死亡、その遺体は傷だらけだったそうです。当時少年だった猛さんは、お母さんと遺体を引き取りに出かけました。ゆき夫人は夫の死に遭遇してこう言われました。「悲しまねばならない立場にあってこそ持たねばならないのが信仰です」。私などこの言葉の重さに圧倒されます。そして思うのです。洪水も津波も、その土台の故に家を倒すことはなかった、と。「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人」は、「洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしません」と説明されます。勿論、揺れに揺れ、耐えに耐えなければならなかったでしょう。しかし倒れることはなかったのです。私たちは「尽き果てる人生に望み」を求めます。しかしそのためにはイエスの約束を本気で信じ、そのことばに従うことが求められています。問題の重大さを考えるなら、その取り組みが真剣でなければならないことは言うまでもありません。ところが問題の重大さに気付いていないためか、ややもすると取り組む姿勢が曖昧で、それでいて良好な結果を期待するようないい加減さが私たちには付きまといます。イエスのことばを聞いていながら、それを実行しようとしないのです。その結果は洪水に耐えられず、無残にも倒壊した家のようです。皆さん、イエスのことばはどれほど沢山聞いて学んでも、それを自分の人生の支えにするところまでもっていかないと、肝心なときに自分をイエスに任せられないで終わってしまいます。イエスは私たちの人生に責任を持ってくださいます。しかし私たちが本気でこのお方のことばに立ち向かわないと、人生最後のところで大きな空振りをして終わります。日々、主よ、主よと真剣にその名をお呼びしながら歩む時、必ず「びくともしませんでした」を経験できます。是非ともそれを期待して下さい。

1月のお花

過去のメッセージ

2007.11-12月掲載分「平凡で満ち足りた人生」
2007.10月掲載分「一人で悩まないで下さい」
2007.8-9月掲載分「思い煩いからの解放」
2007.6-7月掲載分「目を覚ましなさい」

      
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