仮に何もなかったとしても、子どもはそれ位の年令になると、どうしても孤独感を深め、憂鬱になるものです。何があっても親に話すことも出来ず、沈みがちになります。親は親でそんなわが子を見ながらひとりやきもきするしかありません。誰もがいつになってもこうした気の重い孤独ないとなみを続けなければならないのでしょうか、考えさせられます。
孤独というと、それを巡って決まって出てくる言葉はコミュニケーションです。コミュニケーションは大事です。それによって人がひとりぼっちになるのを避けられたらそれにこしたことがないからです。ただそのコミュニケーションで人の心から孤独感を取り除けるかというと、どうも事はそう簡単ではなさそうです。孤独感というのは、本来私たちのいのちから切り離せず、それは生涯なくせるものではないのです。これは私たちのいのちに備わっているものなのです。それだけにこの正体を見抜けず、取り扱い方を間違えると、生きている間中これによって暗闇を徘徊するようなことにさえなりかねません。
そもそもこの孤独もしくは孤独感というものには暴れ馬みたいなところがあって、人は思うようにその手綱を引いてコントロールできず、それに翻弄(ほんろう)されてしまうことがあります。そのため、次のような結果に行き着くのです。第一は、孤独をじっと我慢し、一生懸命その暴れ馬を乗りこなそうとします。それは良いのですが、結果として自負を強め、そこに独善的な人間性が出来上がり、周囲の誰も彼も自分に従わせようとすることになります。挙句弱い人を見るとその人を馬鹿呼ばわりすることにさえなりかねないのです。第二は、孤独に辟易(へきえき)として耐えられず、自分の周りに人を集めようとします。「類は友を呼ぶ」という諺がありますが、同じタイプの、同程度の価値観をもった人たち、それでいて適度に自分を持ち上げてくれる人たちに声かけをするのです。こうした交流は、肩はこりませんが、それを幾ら続けても一向に上昇の機運が見られないのが特徴です。第三は、孤独に耐えられず、かといって人との交流も出来ず、その結果、「溺れる」のです。酒に溺れ、異性に溺れ、賭け事に明け暮れるのです。今の時代この傾向の人を多く見かけます。
いずれも孤独に閉口し、程度の差はあってもそれに引っ張りまわされた結果です。ではこの孤独というものは私たちにとってただ醜悪(しゅうあく)でおぞましいものなのでしょうか。先に「孤独、それは私たちのいのちから切り離せないものである、ただその取り扱い方に注意」と言いました。ではどうすればよいのでしょうか。先ず理解すべきは、それは私たちを潰(つぶ)すため、悩ますために存在しているのではないということです。それは私たちが本当の出会いを経験するよう弾(はず)みを与えてくれる、もしくはそのお膳立てをしてくれるものなのです。
人間には一見災いと見えながら、実は大変重要な役割を果たすものに三つあります。一つは、誰にも間違いなく訪れる死です。死は自信満々の人生、好き勝手な人生に警告を与え、人を大きく揺さぶります。二つ目は、罪責感です。過去の過ち、破綻した人間関係から来る責め、それらは自分自身を問題視するよう私たちを仕向けます。そして三つ目が孤独です。これがあることで、人は自分が本当に寄りかかるべき真実なものは何か、それを追求するようになるからです。
私は赤子がねんねこでおんぶされているのを見るのが好きです。背負われている子どもは百パーセント無防備で、完全に安心しきっています。まことに至福の時と言えるでしょう。実はこうした無防備で安心出来る境遇というものは私たちにも必要で、それがないばっかりに疑心暗鬼(ぎしんあんき)な生活を送ることになるのではないでしょうか。皆さんには信じられないことかもしれませんが、孤独はどこに行けばその安心を手にすることが出来るのか、私たちがその所在を突き止める手助けをしてくれます。
イエスはこう言われました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」。興味深いことですが、イエスが最も嫌われたのは私たちをひとりにすること、孤独にすることでした。時折「中国残留孤児」のことが報道で話題になります。事情があるにしても異国で親に捨てられた子どもたちはどんなにか不安だったでしょう。その気持ちを想像すると身につまされます。ところがここでイエスは私たちを絶対に孤児にはしないと言われるのです。イエスはヘブル語でインマヌエルとも呼ばれました。その意味は「神、われらと共にいます」です。このお方はいついかなる場合も私たちと共にいて下さいます。皆さん、あなたが今日までひとり寂しく歩いて来たのは、人生でこの本当の同伴者を探り当てるためだったのです。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」。これは決して単なる気休めの言葉ではありません。一度お考えになってみませんか。