講演・シンポジウム (編集長の 参加・感想記)  


@日本母親大会 in滋賀県 分科会(2001.8.25) 
    

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「人権・平和・義理人情」    評論家 加藤周一さんの講演

                 2001.8.25 10:30〜12:00

--日本母親大会 in滋賀県 第49分科会--


 2001年8月25日(土)〜26日(日)と滋賀県で『日本母親大会』が開催されました。滋賀県でははじめての開催です。25日には、立命館大学びわこくさつキャンバスで分科会が開かれました。近いことでもありますし、なかなかそういう機会もないことですので、興味のあった「加藤周一さんの講演」と「羽仁未央さんと古屋和夫さんの対談」の分科会に参加しました。

 以下は、その時聞いた講演を、ノートに取ったメモを元にして、文章にまとめたものです。メモですので多少の誤解等があつやに思いますが、当日の話の雰囲気でもつかんでいただけたら、ということで、以下要約しました。お読みください。見出し及び文責は松村新聞社にあります。念のために。


はじめに

 和歌をつくるとき、思いついたことを歌にする方法と題を与えられる題詠歌とがある。今日の話のうち、平和・人権は母親大会から与えられた題詠の部分で、義理・人情が私の部分である。タイトルの「平和」或いは「戦争」は国から始まるのに対して、「人権」は人間の権利、個人の権利である。一方は国の話で、一方は個人の話。まずは個人の話から始めたい。

人権とは何か

 人権は翻訳語である。ヨーロッパ語で複数。フランスの宣言やアメリカの独立宣言。個人の権利であるが、個人とはいつからか、生まれたばかりの子ども(幼児)と大人とは違う。また、生まれる前から人権がある(例えば堕胎など)など、いろいろ面倒な問題がある。
 ヒューマンライズ。生まれながらにして全ての人に備わっていると思われる権利を指す。宗教・人種・男女などに関係なく。例えば、「全ての人は平等である」といった時、実際にはワナがあって、身長・体重など現実は不平等である。では何が平等か。それが全ての人は「人権を持っている」ということ。人間平等の基礎は人権であるということである。

人権の内容

 人権の内容をなすものを列挙すると、先ず
@生存権(第一次的、中心的)。生きる権利のことで、対極が人殺しである。
A自由であること。内容的には2つあって、
ア、身体の自由。むやみに逮捕してはいけない。法を破った人のみ。
イ、精神の自由。何を考え、何を信じるかは自由ということ。行動することは別になるが。
この人権の要求は感情から生まれるもので理屈ではない。そのことを私の言葉で人情の問題であるという。

人権を脅かすもの

 さて、この人権を脅かすものとして何があるか。列挙すると、
@病気。人間の行った行為ではないにしても人間との関わりは出てくる。例えば、病気の治療を間違えたとしたら人権侵害になる。
A事故。望んでいないが起こる。自然現象であっても、例えば地震の場合、橋の造り方や監督官庁の責任は出てくる。阪神大震災は人々が活動を始める前であったことが幸いした。天災が人災になる場合がある。
B私的な殺人。今の世は弱い人をねらう。卑怯である。攻撃された場合反撃するかどうか、正当防衛を認めるか否かの問題がある。これを国家に適用すると、多数意見は認めているが、少数意見として「絶対平和」の観点から認めない意見もある。危険が子どもに及んだとき母親が反撃する権利があるか、という問題にもなっていく。
C国家による殺人。合法的な殺人である。内容的には2つあって、
ア、戦争。人権の決定的・大規模・組織的・意図的な破壊。戦争には理屈と屁理屈がある。
イ、死刑。裁判で死刑となるのは国家によって犯人を殺すこと。国家の合法的行為による殺人である。いい悪いの問題でなく、事実の問題。死刑制度に反対・賛成がある。ヨーロッパは反対になっている。対して中国・日本・米国は賛成である。G7のうち日本と米国のみが死刑をやめてはいない。

自由の制限

 人権の内容としての自由は、理屈でなく人情に発する欲求であるが、意のままに行動すると2つの問題が生じる。その1は、人に迷惑をかける可能性があるということ。大きな排気量の自動車の購入はそのこと自体は自由でも環境汚染の可能性がある。隣りの家がうるさいから火を付ける。それは犯罪になる。個人の自由をとことん追求すると結局自由ではなくなってしまう。そこで自由への制限、責任の問題が生まれてくる。社会の集まりの中で、他人の自由の制限を課すことになる。社会に対する責任として個人の自由を制限する、それが私の言葉の義理である。

 義理の人情の話としては、八百屋お七の話など恋愛は人情である。一方、共同体にとっての利益、社会の規範としての義理も必要である。そのぶつかり合い。義理の話の例としては、例えばイタリアのシシリアで自動車の運転をするとわかるが、運転者が信号を守らない。運転の自由が大変な不自由を招いている。

 その2は、直接人に迷惑をかけないにしても、間接的には迷惑になる場合があるという問題である。信教の自由とはいえオウム真理教は行動によって反社会的な蛮行をした。国家神道は、1930年からの15年戦争と呼ばれる中国侵略戦争の精神的支柱であった。戦争の場合、武器とともに兵士のやる気が問題である。ソ連は社会主義を守れ、アメリカは民主主義を守れ、であったように、日本の兵士の精神的な最も中心的な柱が国家神道であった。日本の神は専門家の集まりで、伊勢神宮は全体の神の中心。靖国神社は戦争の神様。1945年までそうであった。

靖国参拝問題

 従って今回の靖国参拝問題の最も基本となる点は、これから日本が軍国主義的になるのではないか、というおそれ、もう一度脅威となる心配だと思う。中国・韓国がそう思い反応するのは必然で、反応が分からなかったとすれば無知と言わざるをえない。個人の自由の問題が「日本国全体の利益」に及ぶということである。

戦争による破壊

 次に、平和の話に。平和の対極の「戦争」は人を殺すだけでなく、@軍人の命 A非軍人の命 B町を破壊する(1945年、東京・大阪・名古屋などは焼け野原であった) C社会の構造を破壊する(家族バラバラ・疎開・爆撃など) D価値観を破壊する(何が大切かを壊してしまう)。

 第二次大戦後の文章として、「戦争は物質のペリセポリスを破壊し、精神のスーザを破壊した」というのがある。

戦争には理由が要る

 戦争にはその正当化(理由)がつきものであるが、それを列挙すると、
@「正義のため、平和のための戦争」。 キリスト教徒の内村鑑三は日清戦争に賛成しながら日露戦争・第1次世界大戦には反対した。当時は平民新聞社と内村鑑三が反戦であった。「剣もって立つものは剣をとる」(?)。東洋平和のためといいながら1894年、1904年、1914年と10年おきに戦争している。何遍、平和のためといって戦争するのですか、と内村はいっている。
A「自衛のための戦争」。 憲法第9条に対して、自衛隊は自衛のための軍隊という。しかし、戦争技術論的に「自衛では手遅れ」という問題が生ずる。先ず、先にたたけ、という声。ハイテク戦争では時間がきわめて短くなっている。どちらか先か、という問題。中国は先に使用することはない、と明言しているのに対して、アメリカは絶対に言わない。かって攻撃のための軍隊が存在した試しがない。全て自衛のための軍隊であった。
B「局地的な戦争」。ならず者国家。それを決めるのは神でもローマ法王でもない。アメリカのオルブライトがいっている。平和を望むならば戦争に備えようという考えは失敗してきた。これは幻想であった。

(以下、時間切れでここまでで、話は終わりました。)

講演を聞いて

 加藤周一氏といえば、知る人ぞ知る著名な評論家で、日本の知性の代表とも言われている人です。その人が近くまで来るということで、めったにない機会ですので、傍聴に駆けつけた次第です。
 大会事務局が提起した「人権・平和」というテーマをそのまま演題にして、少しだけ「義理人情」というテーマを付け加えて、懇切丁寧に定義から説くほぐしていく様は、本当に真面目な話の仕方でした。人権という言葉の概念を歴史的・内容的に分析・解剖して明らかにしていきます。そして、自由の規制・国家の殺人まで話が及んで、戦争の本質を鋭く突いていきます。
 文章力の限界で、その辺の臨場感が余り出ていないのかも知れませんが、靖国神社参拝問題を現代的観点で鋭く批判しているのは、さすがだと思った次第です。(2001.8.27記)

 

 


 

 

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