歎異抄の誤り
 
 私は仏教の事は余り詳しく知らない。余りと言うより殆ど知らないといっても過言ではない。誰かに仏教を学んだこともなく、禅師などにも付いたことはないので、仏教の戒定慧、そのほか戒律なども殆ど知らない。

 ただ、働く傍ら独学で禅を学び20年ほど掛かって禅の極意に到達したことは確かである。だから、仏教理論あるいは禅理論の矛盾や誤謬は寸時に分かると言っても過言ではない。因みに禅の極意とは釈迦が到達したものと同じ物である。
 
 それゆえに仏教の聖人や禅の師家の一言あるいは一句を聞いただけで、その先人が当を得た人かそうでないかは判別できる。世界を席巻した鈴木大拙は、自他ともに悟りに到達したと言っていたが、彼が悟りに到達していないことは見る者が見れば一目瞭然である。
 
 悟りとは、説くものもなく、示すものもないのが本道であるにもかかわらず、大拙は言う。
 
 
・・・問いを解くとは、それと一つになることである。中略、問う者が、問いの外にあることをやめる時、すなわち両者が一となる時、それらがその本来の状態にかえる時、を言う。さらに言えば、それらが、まだ主体と客体の二つに分かたれない原初の事態に立ち帰る時──分離が行われる以前、世界創造の以前──これが、論理的証明の形においてでなく、自己の現実の体験において、解決が可能となる時である。
 
 悟りに到達した禅匠は誰しも、悟りに至るべきヒントは与えても、悟りとはああだこうだと述べることはしない。
 何故ならば、説くものもなく、示すものもないものを説くことは二律背反になるからである。悟りに至らない者ほどマヤカシの理論を述べるのである。
 
 しかし、説くものもなく、示すものもないものをああだこうだと説けば説くほどとてつもない矛盾を説いているという理屈になるのだ。その筆頭が鈴木大拙である。
 
 私は歎異抄の全文を読んでいないが、ただある個所だけがすごくひっかかるのである。
 
 第三条の、
 
 一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

訳文 善人でさえ浄土に往生できるのだから、悪人はなおさら浄土に往生できる。 ところが、世間の人たちが言うには、「悪人でさえ往生できるのだから、善人が往生できないわけがない」この考え方は、一見正しいように見えるけど、決してそうではない。阿弥陀さまの本願、つまり他力の考え方ではないからだ。だけど自力の心をひるがえして、阿弥陀さまのお力にまかせるという考えに切り替えると真実の往生を遂げることができるようになる。 煩悩でいっぱい詰まっている私たちは、どんな修行をしたって解脱はできない。そんな私たちを哀れに思って、私たちを救ってあげようというのが阿弥陀様の本意であり、善人よりも阿弥陀さまのお力にお任せしてしまう悪人こそが、一番浄土に 往生するのにふさわしいという訳である。そういうことだから、「善人でさえ往生できるのだから、まして悪人はなおさら往生できるのである」とおっしゃったのである。

 
阿弥陀如来とは釈迦の死後五百年ほど後に大乗仏教側が想像作成した架空の仏である。
さんざん悪事を働いた悪人が架空の仏である阿弥陀仏を拝んで「南無阿弥陀仏」と唱えたら浄土に往生できるというのである。それはいくら何でもあり得ないだろう。
 
 仏教には古来、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)というシンプルな戒めの偈がある。
 
 諸悪莫作(しょあくまくさ)諸々の悪をなすなかれ
 
 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)多くの善を行い奉り
 
 自淨其意(じじょうごい)自らの心を浄める
 
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)これ諸仏の教えなり
 
 七仏とは毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)の六仏と釈迦を加えて七仏と言う。
 
 当然、七仏通戒偈の方が親切、寛容、同情、奉仕の神の摂理に合致して納得できるものがある。七仏通戒偈には有名な逸話がある。

 いつも木に登って坐禅をしている道林禅師という人がいた。白楽天が道林禅師の元にやって来て問うた。

「仏法の大意とはどういったものでしょう」
「諸悪
莫作、衆善奉行」

 道林禅師は木の上から答えた。白楽天は少しむっとした。
「そんなことは三歳の子供でも知っていることではないですか」
「三歳の童子すら知っていても、八十の老翁でも実践するのはむずかしい」
 白楽天は、はっと感じる物があって道林禅師に礼拝した。
 
 仏教は仏陀の死後多くの部派に分かれたが、その中で最も釈迦の伝統を守り解脱を目標としたのは上座部だった。
 
 しかし、現代でも解脱に到る人間は稀である。釈迦が入滅して五百年ほどして、伝統仏教から離脱していった者達で結成されたのが大乗仏教である。

 彼らは自分たちの仏教方式を大乗と称し釈迦以来の方式を守っている旧来の仏教を小乗と軽侮した。自分らの意にそぐわない者を軽侮するのは仏教の教えにも反する行為である。そんな連中が想像作成した架空の阿弥陀仏や観音菩薩などを敬うことは可笑しくないだろうか。まして観音菩薩と言うのは悟りを求める衆生を指すので、まだ悟りを開かず修業中の仏に達していない観音菩薩を敬うこと自体可笑しいのである。
 
 元来の仏教経典はパーリ語という比較的分かりやすい言葉で書かれていたが、大乗仏教側は一般の人間には分かりづらいサンスクリット語を用いた。サンスクリット語にしたのは神秘性と高尚性を演出するためとしか思えない。
 
 法然は唐の大乗仏教の善導大師の「往生礼讃」に感銘を受け称名こそがすべての人が救われる道だと信じた。称名とは「南無阿弥陀仏」と称えさえすれば誰でも浄土に往生できるという教えである。法然はこれこそが富貴卑賤の区別なく、すべての人を救う平等の教えだと確信したのである。
 
 法然に弟子入りした親鸞は法然を一途に信じ、法然を生涯の師として、称名の布教に努めた。宗教家にとって悪人であろうと善人であろうと信者の数が多ければ多いほど一大勢力となるのである。信者の数が多ければ多いほど、自身の保全と社会からの尊敬と優遇が得られ、地位の向上と富裕が約束されるのである。
 
 これはキリスト教が、キリストは罪を開放するといって多くの信者を獲得したパターンと良く似ている。しかし、いくらキリスト教に入信しても、罪が解放されることなど永遠にないのである。
 
 
シルバーバーチは言う。
 
 バイブルには事実でないことが沢山のべられています。いかなる人間も自分以外の者のために代わって苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない・・・・・他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分でそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰かほかの者が背負ってあげることができるとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。

 懺悔についてもシルバーバーチは、罪を告白しただけでそれまでの罪が許されるなら、いままで真面目に生きてきた人との公平が失われることになり、そんなことがあるはずがないと断罪する。

 
傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。”すみませんでした”の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であると言えるでしょうか。いかがですか。・・・・・。
 
 親鸞の言う「善人でさえ往生できるのだから、まして悪人はなおさら往生できるのである」というのは真っ赤な偽りでしかない事が分かる。
 
 私は物心ついてからいろいろな宗教関係の本を読んだ。しかし、私の合理的精神と猜疑心を納得さすものは何一つなかった。聖書も読んだが至る所不合理な部分があり到底納得できなかった。復讐心に満ち、機嫌を損ねると地上に疫病をまき散らすような神を記述するに至っては何おか言わんやである。
 
 ヨブ記の話は聖書への信頼を一層遠くした。廉直に悪をなさず神を恐れ幸せに暮らしているヨブを、彼の信仰を試すためにサタンを使って不幸のどん底に落とす所業は、あり得べからぬ話と神の存在そのものを否定せざるを得なかった。様々な苦難の後、ヨブは以前よりも財産を得て幸せを手にしたが、人を試すなどという行為を神が行う話などは言語道断で作り話としか思えなかった。シルバーバーチも聖書には様々な誤りがあると述べている。
 
 シルバーバーチの霊訓を読んだとき、、私の合理的精神は納得し、猜疑心の80パーセントは消え去るに至った。シルバーバーチの霊訓は語る。
 
 
神はこの広大無辺の宇宙で絶え間なく作用している無限の知性です。因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力を持つ者はいません。刈り取る作物は播いた種から生じているのです。神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用します。すなわち、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。
 
 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでもずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です。利己主義のタネを播いた人は、利己主義の結果を刈り取らなければなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑な人は、不寛容と頑固の結果を刈り取らねばなりません。

 ある花のタネを蒔けば、そのタネの花が咲き、それ以外の花は咲きません。あなた方の未来も同じです。過去と現在によって決定されるのです。外部から与えられる罰ではありません。自分でこしらえているのです。

 あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも、霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも、霊の力のお陰です。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活を与えられているのです。

 物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それが一時的に間借りしている宿にすぎません。霊の力は、あなた方が“神”と呼んでいるもの、そのものです。もっとも、その神を正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意味を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が、かっては火の固まりであったものを今日ご覧になっておられるような生命あふれる緑の地球にしたのです。
 
 善い行いをすればそれだけ霊性が増します。利己的な行いをすればそれだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。地上では特定の神を信じれば救われ、反対にその組織が崇拝する神を崇拝せね救われないと説く宗教がありますがそのようなことはありません。神とは自分が崇拝されたからと言って喜ぶような人間的存在ではありません。もしそうであれば神の公正が根源から崩れてしまいます。邪悪で利己的な人生を送った者が、神を崇拝したからと言って素直で利他愛に富んだ人生を送った者を差し置いて神の恩恵に浴することがありえましょうか。

 
 またマントラや経文をいくら唱えても罪が消えることはないとはっきり言い切っている。マントラや経文を唱えて罪が消えるそんな便利なものが存在すると信じる人間の居ることが私には不思議でならない。
 
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