原田雪渓の誤り
 
 「The・禅 ダルマは世界を駆ける」を一通り読んで見た。間違った解説、説明が至るところにあり、禅を解説する本としては、決して適当ではないと言わざるを得ない。
 
 本書は、
 「坐禅を経験してみたい」
 「坐禅の修行をしてみたい」
 という願望を持ちながら、実践されずに日々の生活を営んでおられる、これらの人たちにこたえられるよう、「禅の理」(理論)と事(事実)」を、極めて平易な言葉で、具体的に説いてあります。
 「禅」はまた、「法」「道」「自己」ともいうことができます。
 
 何故でしょう。
 それは地球上のすべての物質が「法」そのままの有り様で存在し、一切のものが「縁」によって生じ、また「縁」によって滅しているからで、これを「縁起の法」と呼んでおります。この「縁起の法」は「人」の介在を一切許しません。それゆえに「縁起の法」を「仏法」と名づけ、あるいは「禅」と名づけています。したがって「地球上のすべての物質は『縁起の法』の前にまったく平等である」ということができます。

 原田雪渓氏は、地球上のすべての物質がそのままの有り様で存在することを「法」と言い、また一切のものが「縁」によって生じ「縁」によって滅している「縁起の法」を「仏法」と名づけ「禅」と名づけているといっているが、古来「縁起の法」が「禅」なんて言った祖師は誰一人いない。「仏法」とは説くものもなく、示すものもないものであり、それ故に永平道元も「一豪の仏法無し」と明言しているのであり、禅を指導する者がこのような誤った自説をもっともらしく堂々と述べることは、禅を学ぶ者たちをさらに混迷さすばかりである。
 
 雪渓氏に限らず宗教学者や禅僧の中には地球上のあらゆる物質、自然現象が釈迦の言う「法」と思っている人が少なくないが、実際に悟りに到達すれば、「法」とは決して自然現象などではなく生老病死を解決するに至った答えが「法」というものである事がわかるはずである。

 
「縁起の法」は「縁起の理法」ともいうが、一切のものが「縁」によって生じ「縁」によって滅しているという明快な論理で、もし釈迦の到達したものが「縁起の法」だとすれば、釈迦が悟りに到達したときに言ったとされる、「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」という言葉は当て嵌まらない。
 
 秋月龍aは
「仏陀は何を悟ったのか。学者たちは「縁起の理」を悟ったのだ、という。そして、それを受けて、今日では仏教を説く僧尼たちまでが、「仏陀は縁起の理を悟った」という。私は、この説に強く反対である。釈尊が悟ったのは、「縁起の理法]などではない。釈尊は、「無我の我」を悟ったのである。といったが、

 無我とは無心あるいは我執のないことをいい、無心あるいは我執のない自己というものは立派なことで、第三者にも堂々と説き明かせるものであり釈迦が悟ったときに言ったとされる「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」という言葉とは矛盾することになる

 釈迦が悟ったものは悠久の古より存立しているたった一つの「法」なのである。ゆえに祖師たちも「一法」とそのものを呼称する。それは、一般の人間にはすごく理解し難い物であり、あえてその内容を言うならば、それ説法者は説くことなく、示すことなし。それ聴法者は聞くことなく、得ることなし。といった内容の物なのである。
 
 釈迦の悟ったものとは縁起の法ではないが、縁起の法の「空間縁起」や「時間縁起」の考え方はスピリチュアリズムの因果律と相通じるものがあり決して否定すべきものではないが、あくまでも釈迦の悟ったものは「縁起の法」や「無我の我」ではないと言わざるを得ない。
 
 この理法つまり、説くものもなく、示すものもないものを釈迦は便宜上「空」と名づけたのであり、そのために、維摩経では、空を修学して空を以って証(さとり)となさず、と言う。空はあくまでも便宜上仮に名づけたものであるから、空を参究して空イコール悟りと思うのは誤りだと諭しているのである。

 実際に僧の中には龍樹のように「空」こそが究極の境地だと解釈して「空」を真剣に参究したり、空理論を述べたりする者も居るが、「空」はあくまでも釈迦が便宜上名づけただけで、「空」を禅学の範疇に入れることも「空」を探求することも誤りなのである。
 
 龍樹は悟りに到達せず、知恵と知識と理論を駆使して空理論を完成させ、龍樹の空理論は後の大乗仏教の展開に大きな影響を与え彼を師匠として慕う論師たちが中観派という学派を作ったほどである。しかし、龍樹の空理論は一応の説得性はあるが、不二法門のすり替えと言えなくもなく私からすればしょせん魔説であり、龍樹がもし悟りに到達して「一法」を知れば、釈迦が便宜上「空」と名づけた真の意味がわかり、空理論の誤りを知って空理論を放下したのではないだろうか。 

 私は読んでいないが、物理学でも、糸川英夫氏が「新解釈"空"の宇宙論」とかいった本を出版して、宇宙と般若心経の「空」が無関係ではないようなことをいっていた記憶があるが、私から言わせれば、便宜上名づけた「空」と宇宙が関係しているなんてことはまったくナンセンスとしか言いようがない。
 
 これは決して鈴木大拙氏や井上義衍氏あるいはその他の僧たちのように想像や空想で言っているのではなく、実際に、釈迦と同じ立場に至ったゆえに確信を持って言えるのである。
 
 また雪渓氏は、
「人」の理性や教育では断ち切ることのできない人間の煩悩、すなわち貪(むさぼり)・瞋(いかり)癡(ぐち)は、「縁起の法」に目覚めることによってのみ、断ち切ることができるのです。と言うが、

 貪(むさぼり)・瞋(いかり)癡(ぐち)は、「縁起の法」に目覚めても決して断ち切ることなど出来ないのである。維摩経では「婬・怒・痴を断ぜず、またともに倶ならず」とか、「痴愛を滅せずして明脱を起こす」とか言って、無明、煩悩等を決して絶滅とか断ち切る事ができるとは言っていない。

 なぜかと云うと、悟りに到達しても、決してそれらを断ち切ることが出来ないのが当たり前で、それら煩悩をかかえながら明脱を起こすことが真の悟りだからである。雪渓氏が「縁起の法」に目覚めることによって、無明、煩悩を断ち切ることができると思っているのは、雪渓氏が真の悟りに到達していない証拠といえる。

 中国禅宗史研究者の柳田聖山の著作「ダルマ」で柳田聖「不断煩悩而入涅槃」(煩悩を断ぜずして涅槃に入る)をわざわざ(煩悩を断じて涅槃に入らず)と読むのが正しいと訂正していたがこれはあからさまな間違いで意味不明の翻訳になる。禅の極意に到達した者からみれば(煩悩を断ぜずして涅槃に入る)が正しい翻訳で納得できるセンテンスになる。
「群盲象を評す」という諺があるが、禅の世界でも禅の極意に到達しない者があれこれ自分なりの禅を述べているのが大半なのである。


 趙州洗鉢のことでも、
趙州和尚が「食器をきれいに洗って、片づけておきなさい」と言われた。その食器は何を意味するかと申しますと、あなた自身です。皆さん一人ひとり、「あなた自身をきれいに掃除し、片づけておきなさい」というように理解をしないと、大変な間違いを生じます。と言っているが、これも間違った説明で、食器は決して自分自身ではなく、ただ単に、日常に悟りのヒントがあることを教えただけである。

 私たちが、自分以外のところに、「法」、「禅」、あるいは「道」というものを認め、そして自分とそういう「道」とか「法」とか「禅」というものの間に距離をおくということは、これは大変な誤りであります。中略  繰り返しになりますが、仏や祖師方も「自分自身が道であり、禅である」とお示しになられますように、遠くのほうに大変な距離をおいてものを求めるのは誤りであるということに、気がついていただきたいと思います。したがって、「法」というものは、いつでも、どこにでもあるものでなければならないということであります。 人類でいちばん最初に、その「道」というものに気がつかれた 中略 自分自身が「道」であるということに気がついた、目覚めた、その人を釈迦牟尼と呼んでおります。中略  その道を確実に歩くことによって自分自身の「自己」に目覚めることは自明のことです。中略 たとえば自分自身の「自己」に気がつくまでに三十年かかった人もいます。お釈迦さまは六年かかりました。

 雪渓氏は、自分と「道」とか「法」とか「禅」というものの間に距離をおくということは、大変な誤りだという。自分自身が道であり、禅であり、その「道」に、いちばん最初に気がついた人が釈迦だと言う。そしてその「道」を確実に歩くことによって今度は自分自身の「自己」に目覚めるという。その自己に気がつくまでに釈迦は六年かかり、人によっては三十年かかった人もいるという。
 一般的には、「道」に気がついた事を「悟り」というのではないか。釈迦は出家をして六年目(一説には七年目)に悟りに到達したのであり、さらに自己に気がつくまでに六年かかったという意味が分からない。

 
 雪渓氏は、釈尊が明らかにされた事実とは、事実そのもの、事実に同化しきった様子で、これを「法」とか「法自体」といっております。などと言っているが、事実に同化しきった様子などと言うのは、公案の答とは問題と一体になることだと誤った自説を提唱していた鈴木大拙の論理とかぶっているように思えるのは私だけだろうか。

 そして、地球にあるあらゆる物質、自然現象、或いは「縁起」などを「法」と特定し、「法」というものは、いつでも、どこにでもあるものでなければならないということであります。なんて言っているが、釈迦の言う「法」とは決して、事実そのもの、事実に同化しきった様子などを言うのではなく、釈迦自身が
「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」言っているように、悟りに到達した内容を「法」と言っているのである。

 悟ってもいない老師に印可されて、その禅僧がまた老師になり、これまた悟っていない禅僧に印可するという悪循環が連綿と繰り返され、真の仏法を知らない僧が、誤った仏法を得々と説くようになるから、このような矛盾した説法が生じるのである。げに恐ろしきは錯覚なり。その説法を聞いたり読んだりする者は、殆どが仏道というか仏法に無知な素人ばかりだから、何の疑問も抱かずに誤った説法であろうと何だろうと説得力のある僧を本物の解脱者だと尊ぶのである。

 東京大学印度哲学科を卒業した仏教学者の故紀野一義という人は、「禅現代に生きるもの」という著作の中で次のように書いている部分があった。
 
 鈴木大拙先生がアメリカからはじめて帰朝されたとき、東京大学の印度哲学研究室に仏教の専門学者ばかりを集めて話をされたことがある。そのとき先生は、「人間はみな現実(リアリティー)に深い関心を持っている。しかし、これに近づき、これを手に入れるためには、般若観音で見るということが必要である」と言われた。そして、「般若観音で見るということはどういうことかというと、たとえば」と、先生は机の上の花瓶を指さして
「これは花瓶である。しかし、これを花瓶だと見る時に、この花瓶と私との間に、花瓶とはこういうものだという先入観が入りこんでしまっている。それではこの花瓶とわたしとがほんとうに一つになっているとは言えぬ。それでは現実(リアリティー)がない。だから、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである」
と言われた。
 そのときわたしは唸り、思わず口の中で「花を花と見て花と見ず」と繰り返した。以来、このことばはわたしの座右のことばとして心の中にでんと鎮座している。

 この文を読んでわたしは妙な違和感を覚えた。それは鈴木大拙が仏法とは間違った方向性の論理を説いているにも関わらず紀野一義を感嘆たらしめたことである。
 鈴木大拙は「悟り」を開いたと称し、和文著書120冊、英文著書30冊以上で禅を世界に広めた仏教学者で、昭和二十四年には文化勲章も授けられている。しかし、私は鈴木大拙が「悟り」を開いたというのは独りよがりの錯覚であると、ことごとく大拙の独善的禅理論の誤りを指摘している。
 
 鈴木大拙が、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである、と言った考え方は明らかに仏法に反するもので、仏法とは平常心、虚心坦懐、頓悟入道要門論の大珠慧海の「衣著喫飯、困来即臥」(衣を著し飯を喫し困じ来たらば即ち臥す)のような素直な心が大意である。この一文からも大拙が悟ったというのは独りよがりの妄想でしかないことが分かる。悟った者から見れば「花瓶」は花瓶でしかなく、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方など全く必要のない思考の推移である。
 
 それにも関わらず、紀野一義が大拙の感化を受けて「花を花と見て花と見ず」なんて類句を思いつき座右の銘にまで昇格させ、大拙の間違った理論に心酔するという現象にわたしは別の意味で深い関心を持ったのである。

 悟ったものから見れば、花は花以外の何物でもなく「花を花と見て花と見ず」なんて邪(よこしま)な考え方は禅の極意からは全くずれているにも拘わらず紀野一義は洗脳されてしまったのである。

 人は間違った論理であろうとなかろうと名の通った人間、つまり著名人の言うことは無条件に信じやすいという癖があるのかも知れない。
 古来、多くの人間が間違った思想や何々主義とやらにかぶれて小は殺人行為から大は戦争といった犯罪にまで及ぶのも多分そういった理由からであろう。

 十一世紀の宋の詩人蘇東坡が詠んだ、「柳は緑、花は紅、真面目」は誰が見ても素直な表現で仏法に相通じるものがある。簡潔だが人を納得させるものがありそれゆえ現代にまで感嘆して伝えられているのだろう。
 一休禅師の道歌にも

    見るほどに みなそのままの姿かな 柳は緑花は紅

 というのがあるが、仏法の極意に到達すると、すべてありのままを受け入れて、飾ったり技巧を及ぼしたりすることは極力避けるようになる。
 だから鈴木大拙の「花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである」なんてひねくれた見方は仏法の大意に背くものである。しかし、そんな誤った教説にも感嘆する人間が居ることに少なからず衝撃を受けたのある。

 名の通った師家や仏教学者が唱えたら、誤った教説であろうとなかろうと信じてしまう節があるのかも知れない。わたしは紀野一義という人の鈴木大拙に対する一文を読んだとき、少なからずの衝撃と違和感を覚えたものである。
禅の悟りとは(驚くべき悟りの真実) 鈴木大拙の誤り 即非の論理の誤り
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