鼻持ちならない思わせぶりな著語(じゃくご)は、奥儀を極めた者としての一貫性もなく、誤りも少なからずある。一つ例をあげると、第五十則に「雲門塵塵三昧」がある。一僧が雲門に尋ねた。
「華厳経でいう塵塵三昧とはどのようなものですか」
圜悟克勤の著語(天下の修行僧はこの塵塵三昧というところで穴倉に坐りこんだようにしている。この僧、霜を吹いて突き刺すような鋭い質問をした。雲門にそんな目つぶしを打って、どうしょうというのだ)
雲門が答えた。
「鉢の中の飯、桶の中の水」
圜悟克勤の著語(この答え、布袋の中に錐が入っているようなものだ。雲門の機鋒まことに鋭い。しかし、答えには金と砂とが混じっている。この答え間違っているがそのままでうまくいっている。長安城の宮殿にいて長安はどこだと問う必要もあるまい)
雲門の答え「鉢の中の飯、桶の中の水」は、わたしは数ある答えの中でも適宜な答えで少しも間違っているとは思わないが、圜悟克勤は何を以って間違っていると判断したのだろうか。
その他にも、「南泉斬猫」の際の、南泉と趙州のやり取りを、やはり、圜悟克勤は、まちがっているがまちがったままでうまくいっていると述べている。わたしは別段まちがっているとは思わないが、圜悟克勤は何を以って間違っていると判断したのだろうか。
垂示についても、「百丈野鴨子」で、仏道を体得した人はどのような道にいても滞ることなく、一手一手に事を運んでゆく働きがある。と述べているが、仏道を体得しても滞る場合もある。圜悟克勤は仏道を体得すれば、人生の岐路に立ったとき等に、決して正誤の選択を誤らないとでも思っているのだろうか。
そういう諸々のことから判断できるのは、圜悟克勤が禅の奥儀に到達していないのではないかという思いである。
白隠禅師は「碧巌録」について、自分はこれまでここを六回講じたが、これこれだと見ていたが、今考えるとそれは誤りであったと述懐しているが、この誤りが個々の項目を言うのか「碧巌録」全般を言ったものか私には分からない。しかし、軽薄な圜悟克勤の著語は「法」を知る者から見れば苦々しい限りであることは否めない。
その人間が悟っているいないかは、臨済が、河陽・木塔の長老たちと一緒に僧堂の囲炉裏を囲んで「普化は毎日、町の中で気狂いのような振る舞いをしているが、いったい彼は凡夫であろうか、それとも仏であろうか」と噂したように、なかなか見極め難いものがあることは確かだが、しかし、その人間の一言半句を聞いただけで容易に分かる場合もある。
臨済は間もなく普化が悟っていることに気づき、
「わしは以前からあいつを只者ではないと思っていた」
と、普化の悟りを認めている。
圜悟克勤の師の法演は、何を持って圜悟克勤を印可したのか禅史に疎い私は知る由もないが、圜悟克勤に「看脚下」という著名な禅語がある。
師の法演がある晩、圜悟克勤ほか二人の弟子を連れて寺に帰る時のことである。暗い夜道なので明かりを灯していた。その時、一陣の風が吹いて、灯が吹き消され真っ暗になった。一行がそこに立ちすくんだ時、法演が三人の弟子達に向かって、この場に臨んでそれぞれ一句述べて見よ、といった。二人の弟子の答えはとうてい法演を満足させるものではなかったが、圜悟克勤の「看脚下」つまり足元を見るには大いに満足したという。
それでもって圜悟克勤を印可したのかどうか私は知らないが、この「看脚下」は本当に極意に到達した上での答えだったのだろうか私には疑問が残る。
実に素直な答えである。間違ってはいない。しかし、帆掛け舟を止めてみよ、の公案で、帆を降ろす、と答えるのもまちがってはいない。同程度の答えである。しかし、それだけでは、本当に見性しているかどうかは見極めがたいものが残る。往々にして禅問答には、順当的な答え、逆説的な答え、荒唐無稽的な答えと、さまざまあるが、いずれでもその時々の公案に応じてどう答えようとも構わないが、当然、制約があり、それは、いずれの答えであっても必ず「法」に基づくものでなければならないということである。しかし、さまざまな答の中でも悟ったかどうかを判断する場合、順当的な答えが一番判断しづらいものがあることも確かである。
もし、「香厳上樹」のような公案なら圜悟克勤はどう答えたのだろうか、大いに興味ある所である。
碧巌録を編した圜悟克勤が、悟ってないといったら眼を剥く禅僧や禅学者は多いと思うが、鎌倉円覚寺の官長であった高僧の釈宗演や文化勲章まで授与された鈴木大拙ほどの禅の碩学すら悟っていないことを思えば、さほど仰天すべきことでもないと思える。
わたしは禅の奥儀を極めた、六祖慧能、南泉、趙州、雲門、黄檗、臨済、大愚、その他大勢の禅匠とは、語録が明らかに違う圜悟克勤がどうしても悟っている人物には見えないのである。
悟らない高僧や禅学者が多数を占めているのは不立文字、教外別伝のせいである。彼らにとって不立文字、教外別伝は都合のいい隠れ蓑というしかない。
その他に理由があるとすれば本人たちが悟りの本質を錯誤して、自らは悟っていると錯覚していることである。もしそうだとしても、悟りに到達した人が皆無に近い現在では、その人たちに向かって、貴方は悟ってないですよ、と否定する者も出てこない。
悟りに到達しても、老朽化した廃寺のような所で死にゆく僧も居れば、不慮の災難に遭い悲惨な最期を遂げる僧も居る。悟りに到達せずとも大いに隆盛を極めた僧や禅学者のいたことを思えば、悟りとはなんぞやと考えざるを得ない。すべては神の因果律つまり運命としかいいようない。
直木三十五の日本剣豪列伝によると、幕末の剣豪山岡鉄舟は浅利又七郎といくら試合っても歯が立たず、人に勝つのは業でなく、人の徳だと言う山岡静山の言葉を思い出し、参禅を志し、当時、名僧として名高かった伊豆の星定和尚のもとへ二十余里の道をしばしば通った。それから、鎌倉建長寺の願翁に「本来無一物」の公案をもらい、さらに、独園和尚、洪川和尚、京に行っては、天竜寺の滴水和尚にもついたそうである。
わたしはこれを読んで、なぜここまで和尚を変える必要があったのかと疑問に思った。真に悟っている和尚なら鉄舟の求め得るものを導き与えられた筈である。ここまで和尚を変えたのは本物の解脱者がおらず、鉄舟の直情を受け止められなかったからではなかろうかと思う。まして、龍沢寺の星定和尚においては、鉄舟が禅を学んで3年ほどして印可を与えようとしたが、当の鉄舟が自分は不充分と言い肯じえなかった。悟りに到達すれば自ずから分かるのであり、自分が納得しない悟りなんて絶対あり得ない。この件は西田幾多郎の経緯とも似ている。
西田幾多郎は大徳寺の廣州和尚のもとで独参し、1903年に「無字」の公案を透過し、廣州和尚から了とされたが、しかし、その日の日記にはこう書き記した。
7月19日
無字をゆるされる。されど余甚だ喜ばず。
本人が納得いかないのに「無字」の透過を認められたのである。そんなことがあるのだろうか。否、そんなことのあるはずがない。ではこれはどういうことかと言うと、廣州和尚が真の覚者ではなかったというしかない。
山岡鉄舟はその後もひたすら禅修業に邁進し、十数年後に浅利又七郎と立ち会ったところ、浅利は竹刀を一合も交えず、「剣の妙理を会得されましたのう」と竹刀を捨てて、一刀流の印可を与えたという。
鉄舟が詠んだ、晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿は変わらざりけり、という歌が鉄舟の大悟の証左として人口に膾炙しているが、鉄舟は禅を修行するうちに何らかのヒントを得て剣の極意に到達したのだろうが、私から言わせれば、実は鉄舟は禅の悟りには到達していなかったのである。
私は明治の偉人の中でも鉄舟は最も好きな人物で、私利私欲を持たず、豪胆で、そのくせ人一倍の思いやりも持ち、尊敬に値する人物だが、残念だが禅の極意には到達していなかったのではなかろうかと思われることがあるエピソードから窺われた。
それは鉄舟が、弟子の嘔吐したものを「浄穢不二」といって自らの口で以って食べ尽くしたということである。真に悟りに到達していれば浄も穢も仮称で、浄とは、すなわち浄に非ず、これを浄と名づく、穢とは、すなわち穢に非ず、これを穢と名づく、であり、それぞれに付けられた名称には、そう名づけねばならない根拠など何一つなく、便宜上名づけられた仮称であり、汚いものを清いと仮称するも、清い物を汚いと仮称するもどちらでもよいが、仮に汚いものを清いと呼称しても、ただ単に清いと呼称しただけで実体は汚いことには変わりない。なので、浄穢不二と言って汚いものときれいなものを同等に扱うことは誤りなのである。
浄土真宗の源信僧都が千菊丸といった幼少の頃、一人の旅の僧が汚い小川で手を洗っていたので、千菊丸はあちらの川の方がきれいですよと教えたところ、その旅の僧は千菊丸に礼を言ったあと、諭すように「浄穢不二」と言った。つまり浄も穢も二つでなく、もともとは一つで有り、二つに分けるのは迷う心があるからで、自分は迷う心がないのだという意味で「浄穢不二」と言ったのかも知れない。
しかし、千菊丸が「浄穢不二」ならどうして手を洗うのですか、と尋ねると、旅の僧は一言も返すことが出来なかったという。
真に悟りに到達すれば汚いものは汚いのであり、決して清いという筋合いのものではないことが分かる筈である。この僧は「浄穢不二」の解釈を誤り汚い小川にも拘わらず手を洗ったのである。
だから鉄舟の場合も、嘔吐物を「浄穢不二」といって口に入れるのは大いなる誤りで、それ故、鉄舟は剣の奥義には到達したが禅の奥義には到達しなかったと思わざるを得ないのである。だからといって鉄舟の人間性が少しでも損なわれることがないことは口を大にして言いたい。私などが足元にも及ばないほど偉大な人物で、悟りの哲理を以ってしてもその人間性にはかなわない。
夏目漱石が鎌倉円覚寺に参禅したことは衆知の事実であるが、そのときの管長は、鈴木大拙氏の師であった前述の釈宗演である。私はどうしても釈宗演が悟りに到達した人とは認証することは出来ないが、むろんそんなことは当時の漱石は知る由もない。
小説「門」では、釈宗演は漱石に、「父母未生以前本来の面目」(父母もこの世に生まれていない時の本来のお前とはどういう存在だったのか)という公案を与えたことになっているが、実際のところは「無字」の公案を与えたらしい。漱石はそれに対して「門」には書かれてないが「人あって物あり、物あって人あり」という見解を示したらしい。
小説「門」から少し抜粋して見るが、「無字」の公案に対する漱石の見解だと置き換えて読めば興趣があらたになる。
この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。すなわち(人あって物あり物あって人あり)
「もっとぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」と忽ち云われた。
「その位なことは少し学問をしたものなら誰でもいえる」
宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音が激しく響いた。
それ位なことは少し学問をしたものなら誰でもいえるなんて言葉は、漱石の素性を見越しての一蹴である。それに、ぎろりとしたところを持って来なければと駄目だ、と云うが、公案の答えにはぎろりとしたところなどは全然必要ない。ぎろりとしたところということ自体すでに誤った応答なのである。
わたしから言わせれば釈宗演自体が、「無字」の公案にしろ「父母未生以前本来の面目」の公案にしろ、「法」に適った正しい見解を答えることができない禅匠にしか見えない。残念なことに、明治以降の禅林ではそういった禅匠たちで溢れているといっても過言ではない。
釈宗演に限らず、鈴木大拙、原田祖学、井上義衍、その弟子の原田雪渓と名のある禅僧、禅学者のいずれも悟りを誤った理論で解説している。説くものもなく、示すものもないものを説くと言う、矛盾を矛盾と感じない偏向的思考に捕らわれている事に本人達は気付いていないのである。
近年本物の解脱者に出会うことは夜空の新星を見つけるよりも難しい。たしかに、道(法)の極意は、そのままに伝えると曲解される恐れも無きにしも非ずで、だからこそ、不立文字、教外別伝にしたのであるが、しかし、不立文字、教外別伝にしたことから、仏教を曲解した者たちを多く生んだのも事実である。
江戸時代には、補陀落(観音が住むという山)は海の彼方にあるといって、小舟で沖に乗り出し、そのまま海の藻屑となってしまった僧もいた。その他にも、生き仏になるのだといって、地中に穴を掘って、坐禅を組んだまま死んでいった僧もいる。すべて仏教を誤解しての行為である。現代でも似たような話はいっぱいある。オウム真理教のような、インチキ教義を信じて、殺人行為まで起こした信者たちと、海の藻屑や地中のミイラとなった者たちと、果たして違いがあるだろうか。
世界にはいろいろな宗教がある。どんな宗教であれ信仰を持つことは決して悪いことではない。信仰を糧として自からを高め、善良な人間になるべく邁進できればそれに越したことはない。
しかし、行き過ぎた信仰は決して良くない。行き過ぎた信仰は心が片寄っているからである。心が片寄るとそれはもう病なのだ。病となったらそれは正常ではないということである。
われわれが何気なく使っている言葉に「恋の病」という言葉がある。この言葉を聞いたとき人は概して好意的に判断したり、時には笑いながら同情したりすることがある。しかし、「病」と名付くからにはウラを返せば正常でないというだ。その「病」が誰にも迷惑のかけないものだったらよいが、ときにはストーカー行為に走ったり、もっとひどいのは殺人行為まで起こす事である。このように「病」というものは「恋の病」に限らず全て正常ではないということである。
柳生新陰流の「兵法家伝書」にはこう書いてある。
「勝たんとひとすぢに思うも病なり。兵法つかわんとひとすぢに思うも病なり。習いのたけ出さんとひとすぢに思うも病なり。かからんとひとすぢに思うも病なり。待たんとばかり思うも病なり。病を去らんとひとすぢに、思いがたまりたるも病なり。何事も心のひとすぢにとどまりたるを病とするなり。このさまざまの病、皆心にあるなれば、これらの病を去って心をととのうることなり」
一つの考えに固執することを固定観念という。固定観念はまさに病といっていいのである。真剣勝負では固定観念に捉われた者は斬られて死ぬしかないのである。勝とう勝とうとばかり心が集中すると、背後に敵がひそんでいても、足元に石があっても気付かず、不意に斬りつけられたり、転んだりして命を落とす。
宗教家の恐いところは多くの人が固定観念の持ち主であるからだ。むろんそうでない人もいるだろうが、中世のキリスト教では、地動説を支持したジョルダノ・ブルーノはローマ教会の圧迫を受け火刑に処せられ、ガリレオも宗教裁判で迫害され、もっとひどいのは多くの人が「魔女裁判」にかけられ殺されたことである。
魔女か魔女でないかを判断する「水審判」なるものは、魔女らしき人間を縛って水中に入れ、沈んだ時は無罪、浮かんだ時は有罪とし、有罪の時は火あぶりの刑にした。どっちにしろ縛られた人間は助からない。こんな不条理を平然と受け入れるところに、固定観念に捉われた者の恐さがある。これを「病」といわなければなんというのか。
イランでは宗教者達が政権を取ったとき、宗教者による裁判だけで反対派は次から次へと処刑していった。まるっきり独裁国家と同じ手法である。
今回の同時多発テロ事件で、飛行機乗っ取り犯のマニュアルが報道されていたが、その中に、目的を達成したら(ビル突入)すぐさま天使があなた達を迎えに来るだろう、なんて一文があったが、本当に犯人達がそれを信じていたとしたら恐いことである。まさに病コウモウである。どんな神にしろ無差別に人を殺していいと容認する神がいるわけがない。神の名を利用した犯罪であり、それこそ神を冒とくするものであり、彼らこそ真っ先に地獄に落ちることは間違いない。
心とは柳生新陰流のいうように、「何事もひとすぢにとどまりたるを病とするなり」で、常に片寄ることを避けねばならない。思想や主義主張などに走る場合も同様である。
人類がはじまって以来、いろいろな思想や主義が唱えられた。しかし、いまだかって人類が皆幸せになるといったユートピアのような世界は実現していない。これからも人類は未来永劫にわたってそのような思想やイズムを生み出すことはできないだろう。なぜなら、人間は十人十色で、あちら立てればこちら立たずで、それぞれが平和的に共存できるそんな都合のよい理論が完成するはずがないのである。
もし一つの思想やイズムに納められるようなそんな理論があるとしたら、とっくに過去の偉人たちによって、発見公表されているはずである。有史いらい何千年と経っているにもかかわらず、いまだにそれが発見されていないということは、これからもそんな夢のような理論は未来永劫にわたって発見されないということである。
いままでにゴマンという何々主義なるものが提唱されてきたが、そのほとんどが潰えていったことを考えても分ることである。なのにひとは、新しい思想や宗教が出るたびに、これこそが自分の探していた思想、宗教と言わんばかりに飛びついていく人が多い。ある特定の物に心が捉えられるということはすでに病なのである。
心とは常に平衡にして臨機応変に対処して行かなければならない。
平和は人類の誰しもが願うものだが、その平和ですら固執することは間違いなのである。聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおひねのおう)は人望の厚い人だったが蘇我入鹿に攻められたとき、聖徳太子の「和をもって尊しとなし・・・」を順守して、一族全員自害した。しかし、聖徳太子ですらいざという時は戦ったのである。「和をもって尊しとなし・・・」はあくまでも太子の理想論で、一族が自害してまでそれを固守することは決して太子の本意ではなかったはずである。山背大兄王は固定観念に捉えられて聖徳太子の本意を察することが出来なかったといえる。
悟った人間と悟らない人間の違いなんて大したことがない。悟ったからとて超人になるわけでもなし、煩悩がなくなるわけでもなし、人類を救済できるわけでもなし、もちろん、世界を変えられるわけでもない。ただ悟った人間は生老病死において迷わないというだけである。
世間には悟りを慫慂するような寺院や書物が巷に氾濫しているが、人格を一変、或いは変容するような悟りなんてものはこの世に存在しない。人格の最高極致のように喧伝されている悟りなんてものは言葉だけが一人歩きしている実体のない陽炎のようなものである。
禅宗では、悟りを開くと、涅槃寂静の境地に至り、一切の煩悩から解放され常に平穏の内に過ごせるかのように記述しているが、パチンコや競馬などのギャンブルに長年興じていた人間が、ギャンブルとは所詮勝てないものだと悟ったというような悟りというボキャブラリーは存在しても、すべての煩悩から解放されるような悟りなるものはこれぽっちも存在しない。
そもそも悟りを開くなどという表現が誤りで、仏教本などでも、釈迦は悟りを開いたと言う風によく書かれているが、これは明らかな間違いで、釈迦は悟りを開いたのではなく、生老病死の問題を解決すべく日夜苦心惨憺して、ついに答えに到達し、ああ、そうだったのか、何だそうだったのかと、悟ったと言うのが真相である。
禅の奥義を極めた臨済を始め多くの禅僧たちも、ああ、そうだったのか、何だそうだったのかと、道あるいは法を悟ったのであり、別次元のように語られている悟りなるものは、どこをさがしても存在しないと言っても過言ではない。
禅の奥義とは絶対不変の一法(真理)が存在するばかりで、一法の存在を知ることが俗に言う悟りだが、これはあくまでも解ったという意味の上等語でしかなく、世間は、悟りを誤って解釈、喧伝し、それに感化されてこれまでに多くの人生を誤った者がいたことも確かである。
釈迦は成道してからも、常に坐禅を組み、悟った物を縦横無尽に解剖し、さまざまな仏教理論を確立していったのである。直心影流の秘伝道歌に
数々の業は多しといふとてももとは一つのものと知るべし
という歌があるが、仏教も同じ経緯を辿ったといえる。
釈迦が第一に注目したのは心である。 心こそ全ての源であり、喜怒哀楽の他さまざまな煩悩もすべて心が生み出しているが、その心とはどういうのものであるかを揣摩していったのである。心とは、本来、何もない所から生じた実体のないものであり、その実体のないものに全ての人間は左右され振り回されているのである。そのことを禅では、応無所住而生其心(応に住する所無くしてその心生ずべし)というのである。
我々は花を見て、きれいと思うが、きれいと思う心は、花を見る直前まではまるっきりなかったのであり、いってみれば、不意に現われた実体のないかげろうのようなものであり、そのかげろうによって我々の人生は一喜一憂しているといっても過言ではない。
仕事がつらいと思うとき、つらいという心は、どこからともなく沸き起こってきた実体のない想念であり、同じ仕事でも人によってはそれほど苦痛でもなく、反対にその仕事を楽しんでいる人もいるかも知れない。あるいは、つらいと思った人も、日によっては楽しいと感じるときがあるかも知れない。このように心とは得手勝手なもので、心を統御することが、幸せな人生につながると、「法句経」も説いている。
我々はいま生きているが、生きていると判断しているのは心であり、心とは無相、無住で実体のないものであり、実体のない心が判断したことは、裏返して考えれば、生きていないということでもあり、生きていなければ死ぬこともないのである。般若心経の不生不滅とはこういうことを言っているのである。
維摩経でもこう言う。一切法とは幻のごときものにすぎない。一切のものが没する、滅する、なくなるというのは幻のような虚妄の存在が否定された状態であり、真実の存在は、生ずることも没することもない不生不滅が真の相(すがた)なのである。
善と悪、美と醜、浄と垢、増と減というような全てこの世で対立するものは、無相、無住の実体のない心が名づけた仮称でしかない。芭蕉慧清は説法でこう言った。
「お前が杖を持っているなら、わたしは、お前に杖を与えよう。おまえが杖を持っていないのなら、わたしは、お前から杖を奪おう」
これは無門関四十四則の公案であるが、この意味の、持つ、持たないの語句は、無相、無住の心が名づけた仮称でしかなく、持つという本来の意を、持たないと解釈し、持たないという本来の意を、持つというふうに解釈すればこのいっけん矛盾する言葉の意味が解けるのである。持つ、持たないの仮称に拘わらなければ自在に変換することも可能で、維摩経ではそれを不二(ふたつでない)といっているのである。これは執着心に捕われることを嫌う禅者の智慧なのである。
のちに、大い慕てつ(だいいもてつ)は云った。「わたしは違う。お前が杖を持つなら、わたしはお前から杖を奪い取ろう。お前が杖を持たないなら、わたしは、お前に杖を与えよう。わたしのやり方はこの通りだ。誰でもいいが、杖をよく用い得るか否か。もし用い得るならば、徳山が先鋒となり、臨済が後衛となろう。だが、もし用い得ないならば、また杖を元の主に返そう」
道を求める者たちに対して、大慕と芭蕉はまったく正反対の暗喩をするが、持つ、持たないが、無相、無住の実体のない心によって、仮に名付けられた概念であると思えば、芭蕉の云ったことと大慕の云ったことは、まったく矛盾しないのである。華厳経も、世間種々の法、すべてみな幻のごとし、もしよくかくの如く知らば、その心動くことなし、と説いている。
悟りはたしかに道の奥義といえるが、仏教としては、それは完成されたものでなく、いってみれば中継点で、悟りを基本にさらに考えを推し進めたものが仏教理論である。釈迦が悟りに到達した後も常に坐禅を組んでいたのもその為であり、白隠禅師なども、大悟六七回、小悟その数知れずと言っていることもそれを物語っている。それを禅では聖胎長養という。
悟りに到達した者の問答は、終始一貫「法」を根拠に応答するので狐疑逡巡することはまずない。鈴木大拙氏はそこのところを「禅問答と悟り」でこういう風に書いている。
禅問答の独自性は撃石火、閃電光でぐずぐずを許さぬ。早いが芸だというのではない。石を叩けば火が出る如く、響きの声に応ずる如く、計較(けいこう。はかりくらべること)を待たずして、自然に問答に応酬されねばならぬ。何と対えんものかと知解をはたらかしていては、禅はもうそこにはない。
極意に到達した限りはぐずぐずした応答は許されぬといった雰囲気のようなものが存在していることは確かである。よく言えば禅問答は、思慮を測る、悪く言えば言葉遊びに興じているといった感じが無きにしも非ずだ。
喝とか棒を食らわすのは言葉に詰まったときの手段と言っても過言ではない。喝とか棒を食らわしても別に「法」に悖ってないからである。喝や棒がいつごろから使われたのか、またも禅史に疎い私はあまり知らないが、臨済や徳山以前にはあまり使われていなかったような気もする。
それでも、ときには喝や棒を思いつかず、しくじった禅僧のいたことも臨済録に載っている。臨済が行脚して竜光のところへ行った時、ちょうど竜光が説法していた。臨済は進み出て問うた。
「鉾先を交えないで、どうしたら勝つことができますか」
竜光はきっと居ずまいを正した。(居ずまいを正すことが質問に対する答えならば法には悖ってないので竜光には責められるべきものはない)しかし、臨済はさらに追求した。
「大善知識よ、何か別に適当な方便がございませんか」
竜光は目をみはって嘆声を発した。臨済は手を挙げ竜光を指していった。「このおやじ、今日はしくじったぞ」 嘆声を発したことが「法」に悖るのである。竜光は喝をするなり臨済を打つなり、あるいは「今日は忙しい」とでも答えていたら、しくじったなどと言われずにすんだのである。
悟りに到達した者と、未だに到達せざる者の問答の違いは、悟りに到達した者の問答が終始一貫「法」を根拠に応答しているのに対して、悟りに到達せざる者の応答は「法」を離れた処にあるからである。
釈宗演が夏目漱石の見解に対して、「もっとぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」と応答したことは「法」に悖っているので、わたしは釈宗演は悟りに到達していないと判断したのである。 一法無双
道元の生悟り 鈴木大拙の誤り 一無位の真人とは 即非の論理の誤り これが神の存在する証拠だ
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