禅の悟りとは(驚くべき悟りの真実)

 私は僧でも仏教徒でもないただの一般人だが、自分では禅の奥義に到達したと思っているので、世間一般に言われている悟りというものの中身について語って見たいと思う。

 私は幼いころ、母は結核で死に、父は直腸ガンで死に、兄は結核を患っていて先行きどうしょうもなく睡眠薬を呑んで自殺し、二つ下の弟は脊椎カリエスで背骨の両脇から始終膿が流れ出るといったような状態で、膿まみれの蒲団の中で死に絶えた。そんな家庭環境で育ったせいか、私は長ずるに従って厭と言うほどの無常観を覚えるようになっていった。

 私が最初に買った宗教本は「超越瞑想入門」とかいって著者はインド人で中身は浅薄な本だった。次に買ったのは佐橋法龍という人の書いた「禅入門」で、私は禅に徐々に興味を覚えていった。

 近年の禅は鈴木大拙氏を語らずしては語れない。大拙氏は和文著書120冊、英文著書30冊以上で禅を世界に広めた第一人者で、昭和二十四年には文化勲章も授けられている。

 私は大拙氏が偽覚者とは知らず大拙氏の著書に傾倒しつつ独自に坐禅を組んだりもした。無門関や臨済録、碧巌録も幾度となく読み返した。むろん「悟り」など開ける道理がなく二十数年が過ぎた。しかし、私の中でさまざまな禅に関する知識が醸成されつつあったのは確かである。

 当時、私は株式相場の極意を求めて悪戦苦闘していたが、あるとき江戸時代の相場師の短歌に接した。

       むかう理は、高きを売りて安きを買う、米商いの大秘密なり

 私の中で大きくはじけるものがあった。脳に一瞬閃光が走ったような感じだった。相場に関して詠まれた短歌が、奇しくも禅の極致に到達させてくれたのである。わたしはしばらくその場に立ち尽くした。

 ああ、わたしは到達したのだと実感した。わたしはその時、家のリビングに居たのだが、脳の感覚がいつもと違うことに気がつき窓にかけ寄り外の景色を見た。木々は木々、家並みは家並み、電信柱は電信柱といつもの光景がいつもと違って見えていることに気がついた。まさに釈迦の言う諸法実相そのものを感じる見え方だった。わたしには最早求めるものは何もなかった。


 もともと仏教の基本原理は生老病死を解決することから始まる。釈迦は生老病死を解決する為にいろいろな苦行に身を投じたが、一つとして問題の解決はできず、苦行は心身を傷つけるだけで何の役にも立たないと、すべての苦行を打ち切って菩提樹の下で坐禅を組みついに悟りに到達したのである。

 釈迦は悟ったとき、「奇なるかな、奇なるかな。一切衆生草木国土ことごとく如来の徳相を具有す」と叫んだという。釈迦の感じた事とわたしの感じた事とは多少の違いはあるが、感じとしては似たようなものである。わたしは、長年求めていた物に到達した喜びに心が躍った。

 釈迦は「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」と言ったが、わたしも同意見である。その内容は言っても中々人には理解されない。
 
 では悟りとはどのような内容のものか。古来多くの人が、釈迦の見たものとか、釈迦の覚醒したものとか言ってさまざまな解釈をしているがどれも正解ではない。その内容とは一般の人が聞いたらアッと驚くような内容で誤解を生じる恐れもあるので中々に明かすことはできない。

 禅宗ではその内容は、「冷暖自知」と言って、冷たさと熱さを経験したことのない人間に、いくら言葉で説明してもその感覚は理解できないのと同様で、自から触れてのみ知るしかないと言っているが、中々に自から触れて知ることが出来ないのが現状である。

 道元は、宋では一人の禅師の元で仏法を学ぶ者は数百人から千人もいて、その中でも悟りを開く者は一人か二人に過ぎないといっている。ということは、大方の修行僧は一生悟らぬまま無為に修行に明け暮れているだけである。

 この時の釈迦の悟りの状態を鈴木大拙氏は、1971年刊行の筑摩書房の「禅」でこういう風に語っている。


「・・・・・かれは、もはや解くべき問いもなく、敵に立ち向かう自己もないことを感じた。かれの自己が、かれの知性が、かれの全存在が、問いの中に注ぎこまれた。言いかえれば、かれはいまや問いそのものとなった。問う者と問いの区別、自己と非自己の区別は消えて、ただ一つの未分の「不知なるもの」があるのみであった。この「不知なるもの」の中に、かれはとけ入った。

 その光景を心に描いてみれば、そこにはもはや釈迦牟尼という問う者もなく、自我を意識する自己もなく、かれの知性に相対してかれの存在をおびやかす問いもなく、さらにまた、頭上を覆う天もなく、足下を支える地もなかった。もしわれわれが、そのとき仏陀のかたわらに立ち、かれの存在をのぞき込むことができたとしたら、そこに見出し得たものは、全宇宙を覆う一箇の大いなる疑問符のみであったろう。もしかれがそのとき何か心をもっていたと言い得るならば、かくのごときがかれの心の状態であった。・・・・・・」


 鈴木大拙氏は、問いを発した自己とその問いが一体になった状態を悟りと言う風に片付けている。これはまったくの誤りで、そのほか氏は悟りを次のようにも言っていた。

「悟りは人間の中に神が入り来たりて、そこで神が自己を意識するのである。この意識は人間意識の底に絶えず存する、超意識とも称すべき意識である」


 これも間違いで、悟っても超意識や霊力の得られないことは、道元その他の悟りに到達した人たちが言っている。ではわたしが体験した悟りの本質とはどういうものだったか。わたしは長年、道を求めていた。それがいよいよ煮詰まってくると、ある日突然、一つの事実に到達した。「一法」、或いは「真理」といっていいものだった。そこに至るのが俗に言う悟りである。

 この「一法」というか「理法」は、そこに到達しない者にはとうてい解することのできないものである。だからこそ釈迦も「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」と言い切ったのである。その上で釈迦は、この「一法」というか「理法」の中身を「空」と言い換えたのである。

 悟れば初めて、「諸悪莫作 衆善奉行」(もろもろの悪を為さず、多くの良いことをしなさい)の至極当たり前な訓戒の真意が理解できるのである。

 一般の人は、悟れば一切の煩悩がなくなると思っているらしいが、悟っても、程度の違いはあるが、喜怒哀楽、物欲、執着のいわゆる煩悩はけっしてなくならない。煩悩があってこそ、人の悲しみや苦しみも分かるのであり、煩悩がない人間は、無感動なロボットと一緒である。

「婆子焼庵」(ばすしょうあん)という公案がある。
 昔、ある所に老婆がいて、一人の禅僧に、安心して修行に励めるように小さな庵を立てて住まわせ、食事はもちろんその他の一切の世話もしていた。

 ある時、老婆は禅僧の心を計る目的で、今まで自分がやっていた食事の給仕に、可愛らしい少女をつけることにした。もし禅僧があやしいふるまいに及ぼうとしたら、当然叩きだすつもりだった。しかし、禅僧は三月ほど過ぎても少女には心を動かさなかった。
 老婆は少女に禅僧に抱きつくよう指示した。少女は坐禅している僧のうしろからいきなり首のあたりに抱きついて、「こんなことしたら、どうなさいます」といった。

 しかし、僧は冷然として答えた。
「枯れ木が冷たい巌によりかかっているようなものだ。少しもその気にならん」
 いかにも禅僧らしいみごとな態度に、少女は恥ずかしそうに戻ってきて老婆に報告した。ところが、少女の報告を聞いて老婆は怒った。そして、僧を庵から追い出したかと思うと、たちまち火をつけてその庵を焼いてしまった。

 これは人間である限り、性欲、物欲、執着などの煩悩は絶対になくすことはできないのに、さも悟りきったようにふるまった僧が偽善者であることを、老婆が見破ったことのエピソードである。

 この話は実際のエピソードではなく、完全な創作話と思うが、なぜなら、老婆の行為は禅の奥義を極めた者ならばの行為であり、一老婆がこのような禅の奥義を極めたとは到底思えないからである。

 禅宗はこの話を公案にして、禅を修行する者の開眼への一関門としているが、悟りというものは「婆子焼庵」の例を見てもわかるように、悟っても決して煩悩などが無くなるものではない。悟った人間と悟らない人間の違いはただ一つ「道」を窮めたか窮めないかの差である。しかし、その差は天地雲泥もの開きがある。

 ゐ山と仰山にも次のようなやり取りがある。

 
ゐ山仰山に問う「涅槃経四十巻あり、多少か是れ仏説にして、多少か是れ魔説なる」仰山曰く「総(まさ)に是れ魔説なり」と

 ゐ山この答を得て仰山の道眼円明なるを称讃している。我が門の眼晴開けばかくなくてはならんのである。ひとり涅槃経のみならず一大蔵経も総て是れ魔説である。禅門に伝わる汗牛充棟の祖録もことごとく邪説である。いわんや各宗の教判のごときは皆ことごとく邪魔の臆説に過ぎぬ。

 悟りに到達した人達は一様に、経文や注釈書は悟りには何の役にも立たないものと吐き捨てる。

 そのほかにも、悟りほど世間に誤解されているものはない。大抵の人は、悟れば平常の意識を超えたスーパー意識が出るとでも思っているらしいが、決してそんな事はない。

 正岡子規は「病牀六尺」で、<余は今迄禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解していた。悟りといふ事は、如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった>
と語っているが、いかなる場合にも平気で生きているという考えも、また間違いなのである。悟っても辛いことは矢張り辛く、ただ、その辛さを受け入れて、辛さと共に生きるのが悟りなのである。

 釈迦でさえ第一の矢は受けるが第二の矢は受けないと、煩悩を矢に例えて、煩悩の存在を認め、煩悩に一時は傷ついてもそれを克服するさまを語っている。

 オウムの麻原が最終解脱をしたとか云ってエラそうにしていた時に、ニュースキャスターの生島ひろし氏が、煩悩はないですか、と尋ねた事に対して、麻原は煩悩はないと言い切っていたが、それだけで彼が悟りに到達していない偽者であることが私にはすぐ判った。

 道元は、弟子の玄明が無断で幕府から寄進を受けたのを怒って、玄明を破門したばかりか、玄明がいつも坐って修業していた処の板の間をはがしその下の土まで捨てさせたという。これを執着と言わなければ何と言うのか。

 のちに曹洞宗では道元のこの所業を見て、道元は悟っていないのではないかと一部で云ったが、以前の私は道元の名声からそれをハナから否定していたが、よく考えて見れば道元が見性しているというハッキリとした確証は一つもなかった。

 無断で幕府から寄進を受けたのを怒ったのは、道元はたぶん権力者からの寄進を潔しとしなかったのだろうが、悟りの見地からいえばこれは差別であり、権力者も庶民も仮相であることを認識すれば、激怒した道元は悟りを実践する境地に希薄だったと言うしかない。

「維摩経」の中でも釈迦の弟子の大迦葉が貧乏人のいる街ばかりで乞食をしていたので、維摩に「富者の処へ乞食に行かずに、貧者の処ばかり行くのは平等の慈悲心がないからではないか」と責められている。

 貧者と富者とは現在、仮にそういう姿をしているにすぎず、その実相は空であり無相であることを考えれば、貧者、富者と分けて考えることは差別であり、道元は権力者からの寄進だからといって毛嫌いする必要はなかったのである。

 一休ならこういった場合、快く寄進を受け入れ貧者を救う手段に利用したかも知れない。釈迦も当時の王から寺院などを建立してもらったりしていることは歴史的事実である。どんな人から寄進されても私欲をもたなければいいのである。

 その他にも道元は、「学道の人は最も貧なるべし」といっているが、貧にこだわるのも間違いである。貧も富裕も、実体のない心が判断したものであり、何を根拠に貧、何を根拠に富裕というのか、たとえば、貯金が十万円しかなくても貧乏と思わない人もいれば、一億持っていてもまだまだ自分を貧しいと思っている人もいる。道元は貧という仮相にとらわれてそういった言葉を吐いたのである。

 というのが、実際に禅の奥義に到達した者の解釈だが、とは言っても、やはり貧しいという現象、現実は否定できない。そう考えれば禅は屁理屈の教義とも言える。

 また道元は、(ほう公は俗人なれども僧におとらず、禅席に名をとどめたるは、かの人参禅のはじめ家の財宝を持ち出して海に沈めんとす。人是れを諌めて云く、人にも与へ仏事にも用ひらるべしと。時に他に対して云く、我すでに冤(あだ)なりと思ひて是れを捨つ。冤としりて何ぞ人に与ふべき。宝は身心を愁へしむる冤なりと云ひて、つゐに海に入れ了りぬ) と言ってほう公を持ちあげているが、それも誤りである。

 財宝には良い悪いの分別はない。財宝を良い悪いと判断しているのは、無相、無住の心が生んだ勝手な想念なのである。財宝を所有していても、財宝に執着せず、財宝を使いこなすほうが悟りの理にかなっているのである。

 ほう公はその後、笊をつくって売り、赤貧洗うが如しの貧乏生活をしたらしいが、自ら好んで、ことさら貧におちいる必要なんてなかったのである。貧に執着した野狐禅というしかない。

 松尾芭蕉が仏頂禅師に参禅し悟りに到達したことは周知の事実だが、芭蕉は「行脚の掟」で、衣類器財相応にすべし。過ぎたるはよからず、足らざるは悪し、と言っているが、別に「行脚の掟」にかかわらず、すべての生き方において、こういった生き方をすることが、釈迦のいう中道の精神にも合致して、悟りの理念にも叶った身の処し方ではないだろうか。

 だからといって、道元が悟っていないかというと決してそんなことはなく、ただ悟っていても、人間は完璧になれるわけでもなく、間違った想念や行為をなさないとも限らないが、ただ悟らない人よりはましというだけである。と書き、最近までは私は全くそう信じて疑わなかった。

 しかし、袴谷憲昭氏の『維摩経』批判の文献を読み、道元の悟りが生悟り(なまざとり)であることが初めてわかった。それは袴谷氏が、道元も維摩経を批判していたことを裏付けるかのように、道元が述べた「空なりといふは外道の見なり」という文言と「現在大宋国をみるに・・・一黙せざるは、維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり、さらに仏法の活路なし・・・大宋国人にあればとて、仏法ならんとおもふことなかれ」と言う一文を紹介している点である。なぜなら維摩の一黙こそが、仏教の真髄、説くものもなく、示すものもないものを表しているにもかかわらず、それを理解できずに、一黙を否定批判しているからである。このことは袴谷憲昭氏の『維摩経』批判の誤りについてくわしく述べているので割愛する。

 一休が悟っているのは世間に広く知られているが、その一休は、自分の息子の身持ちの悪さに勘当したり、また、自らが死ぬときは、死にたくないと、いかにも俗人ぽいことを云ったりしている。

 良寛も晩年になって、恋をしたり賭碁をしたりしたそうだが、かといって、一休、良寛とも、別段、悟りに逸脱しているかというと決してそんなことはない。臨済のいうように愚人には分からないだろうが知る人は知るのである。

 故鎌田茂男氏の維摩経講話に「摩ケ女経」の話が書かれている。美男子の阿難に女が惚れてつきまとうので、仏は女に、
「お前は阿難の何を愛するのか」と問う。娘は「私は阿難の眼を愛します。阿難の鼻を愛します。阿難の口を愛します。阿難の耳を愛します。・・・・・」と阿難の全てを愛すると言った。

 そこで仏は、目には涙、鼻には鼻汁、口には唾、耳には垢、身には屎尿など不浄なものがあるだけであり、さらに男女の交合には悪露(おろ)が流れるだけで、この悪露から子が生まれ、子はまた死ななければならない、と諭した。女は自身の不浄に思いをめぐらし、心を正し、仏道を悟ったとある。

 この話は、釈迦以降の誰かの創作であると思うが、わたしが引っ掛かるのは精液を悪露と断じたところである。仏といっているのは、当然、釈迦のことだろうが、精液は悪露でも浄露でもなく、それを、一方的に悪露と決め付けて、悪露から子が生まれ、子はまた死ななければならないなんて考えを推し進めたら、人類はいつの日か絶滅することになる。人類を絶滅さすことが、けっして仏教の本意ではないはずである。

 釈迦以外の人間が作った挿話だと思うが、一応、仏の言動として語られている限りは、釈迦の過ちと云わざるを得ない。
 悟ったからとて聖人君子になるわけではない。それどころか悟った人より悟らない人のほうが人格的にすぐれている場合もある。悟った人間と悟らない人間の違いは、悟った人間は人生において迷わないというだけである。 

 わたしは、道元よりも孔子のほうが人格的にすぐれていると思うが、道元は生悟り(なまざとり)ながらも本人は道を会得したと思い込んでいるので道に迷わず、孔子は「朝に道を聞かば、夕べに死すも可なり」といって、なお道を模索していた。 

 わたしは、誰に何と云われようと自分では見性したと思っているが、人格に於いては、徳なく、仁なく、汗顔の至りだが、ただ、生老病死においては迷わないというだけである。 

 東大のインド哲学科を出て、現在、宗教評論家として活躍されている、ひろさちや、という人は、牧師に、キリスト教では、病気は神の試練ととらえるが、仏教ではどうとらえるのかと聞かれて、正直に、自分は答えられなかった、と云っているが、悟った人間にはすぐに答えられる問題である。

 病気とは人間に付随するもので、病気に罹らない人間はなく、病気を受け入れ、病気を悲観せず生きてゆくのが、仏教の考えかたなのである。病気に執着して悩むと、それ以上の心の病にかかり、心が病むと治る病気も治らなくなる。

 鈴木大拙氏は禅を世界に広め文化勲章までうけた禅の第一人者だが、後進の多くの禅を学ぶ人たちを迷わせたのも事実である。氏はアメリカにいた時に、禅語”肘外に曲らず”が自分を了知させたといい、こう語っている。

 この語句”肘外に曲らず”は、必然性への単なる表現にすぎないと思えていたのですが、然し突然私には、制限ある事こそが現実の自由・真の自由だとわかったのです。そして全ての自由に関する問題はこれで解けると感じました。その後、私は数々の公案を容易に透過できました。

 禅語”肘外に曲らず”というのは”趙州洗鉢”と同じような悟りへの教示の一つで、決して、制限ある事こそが真の自由なんて解釈すべき性質のものではない。”肘外に曲らず”や”趙州洗鉢”はその語句やエピソードを勘案して真の悟りに到達すべき暗示のようなものでしかない。

 それに悟りの見地からいえば、制限ある事はあくまでも不自由で、決して自由なんてものではない。空腹はあくまでも空腹で以って決して満腹という筋合いのものではないのと一緒である。

 では不二の論理からいえば、空腹は満腹ではないのか、と疑問を抱かれる人もいるかも知れないが、不二というのは仮称の論理を説いているだけで、空腹のことを満腹と仮称するも、満腹を空腹と仮称するもどちらでも良いが、仮に空腹を満腹と呼称しても、ただ単に満腹と呼称しただけで空腹には変わりない。

 だから決して制限ある事が、真の自由とはなり得ないのである。

 
それにしても、氏の禅に対する博学、博識は敬服に価する。それに反して私はあまり仏教のことは知らない。あまりというよりほとんど知らないと言っても過言ではない。それゆえ私も若いころは鈴木大拙氏の著作に嵌まり、悟りとは問いと一体になるものだという誤った観念をずっと抱いていた。

 私以外にもそういった誤った観念を抱いた人は沢山居たに違いない。
 
 いっとき或いは今でもそうかもしれないが、禅の世界では問いと答えが一体となるような風潮が多いに見られ、禅を指導していた師家の苧坂光龍氏は、「帆掛け舟を止めてみよ」という公案に対して、自らが立ち上がって帆掛け舟になりきって、止まることを実演したそうである。このような誤った解答が禅林に横行しているとしたらまさに噴飯ものである。

 「首山新婦」という公案がある。
 ある僧が首山という禅師のところへ行って、「いったい、仏とはなんですか」と、たずねたのに対して首山は「新婦が馬に乗って、それをしゅうとめがひいている」と、答えたので、この言葉の意味はどういうことかというのがこの公案の主旨だが、沢木興道の話によれば、一人の雲水が、丘宗潭という禅師のところに来て自分の見解を見て貰いたいと云ったそうである。

 宗潭が許可すると、入室するなり尻まくりして、「ハイ、ハイ、チョッ、チョッ」 と、手綱をもったかっこうで室のなかを廻りはじめたそうである。宗潭が苦笑して、「なんだっ、そのかっこうは」と、いっても、その雲水は、「ハイ、ハイ、チョッ、チョッ」と、やったそうである。結局は、宗潭に一喝されて、雲水はその動作をやめたのだが、これなども、さきほどの帆掛け舟の公案のように、問題と一体になるのが答えだと思ったのだろう。

 公案の答えは、決して問題と一体になることではなく、歴然とした見解が存在するのである。しかし、悟っていない師家が多いため、飛んでもない答えが横行しているのが現状である。

 曹洞宗に「月有両箇」という公案がある。総持寺の開祖である、瑩山禅師が弟子の峨山に問うたものである。峨山が分からない、と答えると、瑩山禅師は、月に二つあることを知らないようでは、曹洞宗の禅法を弘める人間として認めることはできない、と言った。 

 峨山は刻苦奮励してこの公案に挑んだ。そして、三年かかってやっとその真意を会得したという。
 その真意とは、本山総持寺では次のように伝承されているらしい。一つは文字通り中天にかかっている月であり、もう一つは、その月が放っている光のことで、地上の万物をあまねく照らして、喫茶喫飯から仕事に至るまでを顕現するありさまをいうらしい。いかにも尤もらしい見解だが、こんな見解が罷り通っているとしたら曹洞禅の行末は暗澹たるものである。

 わたしは確信をもって言うことができるが、峨山が会得した真意はけっしてそうではない。それが、どこでどうすり変わったのか、誤った見解が綿々と伝承されていったとしたら、地下の峨山も目を蔽うているに違いない。

 それに、公案の見解というものは、本来なら世上に出ることのないのが禅法であるはずなのに、なぜこういった誤った見解が披露されたのか。わたしは、得意げに見解を述べた者こそ、誤りを伝播させた張本人に違いないと睨んでいる。

 貧と富、正と邪、善と悪、是と非、多と小(あるいは一と多)、大と小、凡と聖、明と暗、その他もろもろの対立するものは無相の心が生み出した仮相の呼び名でしかない。

 金剛経は、

   法相とは、如来説く、すなわち法相に非ず、これを法相と名づく
   凡夫とは、如来説く、すなわち凡夫に非ず、これを凡夫と名づく
   もろもろの心は、皆心に非ずと為す、これを名づけて心と為す

 と、もろもろの物の本性が無相であることを示唆し、便宜上、仮に名づけられたものであることを説いている。その伝で言えば、
 
   月とは、すなわち月に非ず、これを月と名づく
   一とは、すなわち一に非ず、これを一と名づく

 であり、「月有両箇」の見解は、月は一つであっても、一つでなく、そう考えればこの公案の答えは自ずから知れる。

 公案の見解とはもろもろの本性が無相であることを認識すれば答えは無数にある。 
 無門関第十四則に「南泉斬猫」がある。

 東西両堂の僧たちが子猫を中にして争っていた。南泉和尚は子猫を捕まえ、
「お前たちが道を云うのならこの猫は助かるが、云えないのなら猫は斬り殺す」といった。 
 僧たちは誰も応えられなかった。南泉は猫を斬殺した。晩になって、趙州が外出先から帰ってきた。南泉は趙州に猫を斬ったいきさつを話し、趙州の見解を聞いた。すると、趙州はたちまち草履を脱いで頭に載せて出ていった。南泉は、「お前が、もし居たなら猫は救われたのに」といった。 

 わたしは、この公案の見解を、本で二度見たことがあった。一つは、三島由紀夫の「金閣寺」という小説で、もう一つは、曹洞宗の僧が書いた本である。 

 金閣寺のほうでは、南泉和尚が猫を斬ったのは、自我の迷妄を断ち、妄念妄想の根源を斬ったのである。非情の実践によって、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、自他の確執を断ったのである。これを殺人刀と呼ぶなら、趙州のそれは活人剣である。趙州が草履を頭に載せたのは、泥にまみれ、人にさげすまれる草履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩道を実践したのである。
 と、三島由紀夫は小説の中の老師にこう説明させている。

 もう一つ、曹洞宗の僧が書いた本では、不殺生を戒法とする禅者が、猫を斬ったのは、大勢の修業僧を活眼さすための一殺多生の活作略で、この世の、右だ左だ、保守だ革新だ、有だ、無だの二見対立にとらわれない世界を一刀両断によって示したと云う。そして趙州は道とは、相対的二見(草履)を絶対の世界(頭)に止揚する行動によって示したと云う。 


 なぜ猫を斬ることが二見対立を一刀両断することになるのか、なぜ草履だけが相対的二見になるのか、なぜ頭が絶対の世界なのか、わたしには分からない。 
 しかし、わたしに分かるのは、どちらの見解も間違っているということである。南泉が慚愧の思いで猫を斬ったのは、僧たちの開眼をうながすためというのは納得できるが、趙州が草履を頭に載せたのは、道(法)とは、
説くものもなく、示すものもないという理由からである。だから、草履ではなく、頭に石ころを載せようといっこうに構わないのである。

 禅法を弘めるべきはずの本家本元がこういった誤った公案の見解を臆面もなく平然と本に書いているかと思うと、まさに禅は死に瀕しているといっても過言ではない。 

 臨済も「お前たちよ、諸方の師家にいい加減な悟りを許されて、私は禅がわかり、仏道がわかったなどと言ってはならぬぞ。」とか
「世間には禅のいかなるものかも知らないくせに、お経にこうある、論部にこうあると、いろいろひねくりまわして、一通りの学説をでっちあげ、得意になって人に説き示すものもある。」と語っている。

 このことからしても当時の禅林の風潮も、現在の風潮と似ていたらしいことが推察できる。

 日本の禅の教科書とでもいうべき「碧巌録」を編した圜悟克勤も、わたしにはどうしても禅の奥儀を極めた人に見えない。

 鼻持ちならない思わせぶりな著語(じゃくご)は、奥儀を極めた者としての一貫性もなく、誤りも少なからずある。一つ例をあげると、第五十則に「雲門塵塵三昧」がある。一僧が雲門に尋ねた。
「華厳経でいう塵塵三昧とはどのようなものですか」
 圜悟克勤の著語(天下の修行僧はこの塵塵三昧というところで穴倉に坐りこんだようにしている。この僧、霜を吹いて突き刺すような鋭い質問をした。雲門にそんな目つぶしを打って、どうしょうというのだ) 
 雲門が答えた。

「鉢の中の飯、桶の中の水」
 圜悟克勤の著語(この答え、布袋の中に錐が入っているようなものだ。雲門の機鋒まことに鋭い。しかし、答えには金と砂とが混じっている。この答え間違っているがそのままでうまくいっている。長安城の宮殿にいて長安はどこだと問う必要もあるまい)
 
 雲門の答え「鉢の中の飯、桶の中の水」は、わたしは数ある答えの中でも適宜な答えで少しも間違っているとは思わないが、圜悟克勤は何を以って間違っていると判断したのだろうか。
 

 その他にも、「南泉斬猫」の際の、南泉と趙州のやり取りを、やはり、圜悟克勤は、まちがっているがまちがったままでうまくいっていると述べている。わたしは別段まちがっているとは思わないが、圜悟克勤は何を以って間違っていると判断したのだろうか。

 垂示についても、「百丈野鴨子」で、仏道を体得した人はどのような道にいても滞ることなく、一手一手に事を運んでゆく働きがある。と述べているが、仏道を体得しても滞る場合もある。圜悟克勤は仏道を体得すれば、人生の岐路に立ったとき等に、決して正誤の選択を誤らないとでも思っているのだろうか。

 そういう諸々のことから判断できるのは、圜悟克勤が禅の奥儀に到達していないのではないかという思いである。

 白隠禅師は「碧巌録」について、自分はこれまでここを六回講じたが、これこれだと見ていたが、今考えるとそれは誤りであったと述懐しているが、この誤りが個々の項目を言うのか「碧巌録」全般を言ったものか私には分からない。しかし、軽薄な圜悟克勤の著語は「法」を知る者から見れば苦々しい限りであることは否めない。

 その人間が悟っているいないかは、臨済が、河陽・木塔の長老たちと一緒に僧堂の囲炉裏を囲んで「普化は毎日、町の中で気狂いのような振る舞いをしているが、いったい彼は凡夫であろうか、それとも仏であろうか」と噂したように、なかなか見極め難いものがあることは確かである。 

 しかし、臨済は日を措かず普化が悟っていることに気づき、
「わしは以前からあいつを只者ではないと思っていた」
 と、普化の悟りを認めている。

 圜悟克勤の師の法演は、何を持って圜悟克勤を印可したのか禅史に疎い私は知る由もないが、圜悟克勤に「看脚下」という著名な禅語がある。

 師の法演がある晩、圜悟克勤ほか二人の弟子を連れて寺に帰る時のことである。暗い夜道なので明かりを灯していた。その時、一陣の風が吹いて、灯が吹き消され真っ暗になった。一行がそこに立ちすくんだ時、法演が三人の弟子達に向かって、この場に臨んでそれぞれ一句述べて見よ、といった。二人の弟子の答えはとうてい法演を満足させるものではなかったが、圜悟克勤の「看脚下」つまり足元を見るには大いに満足したという。
 それでもって圜悟克勤を印可したのかどうか私は知らないが、この「看脚下」は本当に極意に到達した上での答えだったのだろうか私には疑問が残る。
 
 実に素直な答えである。間違ってはいない。しかし、帆掛け舟を止めてみよ、の公案で、帆を降ろす、と答えるのもまちがってはいない。同程度の答えである。しかし、それだけでは、本当に見性しているかどうかは見極めがたいものが残る。往々にして禅問答には、順当的な答え、逆説的な答え、荒唐無稽的な答えと、さまざまあるが、いずれでもその時々の公案に応じてどう答えようとも構わないが、当然、制約があり、それは、いずれの答えであっても必ず「法」に基づくものでなければならないということである。しかし、さまざまな答の中でも悟ったかどうかを判断する場合、順当的な答えが一番判断しづらいものがあることも確かである。

 もし、「香厳上樹」のような公案なら圜悟克勤はどう答えたのだろうか、大いに興味ある所である。

 碧巌録を編した圜悟克勤が、悟ってないといったら眼を剥く禅僧や禅学者は多いと思うが、鎌倉円覚寺の官長であった高僧の釈宗演や文化勲章まで授与された鈴木大拙ほどの禅の碩学すら悟っていないことを思えば、さほど仰天すべきことでもないと思える。

 わたしは禅の奥儀を極めた、六祖慧能、南泉、趙州、雲門、黄檗、臨済、大愚、その他大勢の禅匠とは、語録が明らかに違う圜悟克勤がどうしても悟っている人物には見えないのである。

 悟らない高僧や禅学者が多数を占めているのは不立文字、教外別伝のせいである。彼らにとって不立文字、教外別伝は都合のいい隠れ蓑というしかない。

 その他に理由があるとすれば本人たちが悟りの本質を錯誤して、自らは悟っていると錯覚していることである。もしそうだとしても、悟りに到達した人が皆無に近い現在では、その人たちに向かって、貴方は悟ってないですよ、と否定する者も出てこない。

 悟りに到達しても、老朽化した廃寺のような所で死にゆく僧も居れば、不慮の災難に遭い悲惨な最期を遂げる僧も居る。悟りに到達せずとも大いに隆盛を極めた僧や禅学者のいたことを思えば、悟りとはなんぞやと考えざるを得ない。すべては神の因果律つまり運命としかいいようない。

 直木三十五の日本剣豪列伝によると、幕末の剣豪山岡鉄舟は浅利又七郎といくら試合っても歯が立たず、人に勝つのは業でなく、人の徳だと言う山岡静山の言葉を思い出し、参禅を志し、当時、名僧として名高かった伊豆の星定和尚のもとへ二十余里の道をしばしば通った。それから、鎌倉建長寺の願翁に「本来無一物」の公案をもらい、さらに、独園和尚、洪川和尚、京に行っては、天竜寺の滴水和尚にもついたそうである。

 わたしはこれを読んで、なぜここまで和尚を変える必要があったのかと疑問に思った。真に悟っている和尚なら鉄舟の求め得るものを導き与えられた筈である。ここまで和尚を変えたのは本物の解脱者がおらず、鉄舟の直情を受け止められなかったからではなかろうかと思う。まして、龍沢寺の星定和尚においては、鉄舟が禅を学んで3年ほどして印可を与えようとしたが、当の鉄舟が自分は不充分と言い肯じえなかった。悟りに到達すれば自ずから分かるのであり、自分が納得しない悟りなんて絶対あり得ない。この件は西田幾多郎の経緯とも似ている。

 西田幾多郎は大徳寺の廣州和尚のもとで独参し、1903年に「無字」の公案を透過し、廣州和尚から了とされたが、しかし、その日の日記にはこう書き記した。
 

7月19日

 無字をゆるされる。されど余甚だ喜ばず。

 本人が納得いかないのに「無字」の透過を認められたのである。そんなことがあるのだろうか。否、そんなことのあるはずがない。ではこれはどういうことかと言うと、廣州和尚が真の覚者ではなかったというしかない。

 山岡鉄舟はその後もひたすら禅修業に邁進し、十数年後に浅利又七郎と立ち会ったところ、浅利は竹刀を一合も交えず、「剣の妙理を会得されましたのう」と竹刀を捨てて、一刀流の印可を与えたという。

 鉄舟が詠んだ、晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿は変わらざりけり、という歌が鉄舟の大悟の証左として人口に膾炙しているが、鉄舟は禅を修行するうちに何らかのヒントを得て剣の極意に到達したのだろうが、私から言わせれば、実は鉄舟は禅の悟りには到達していなかったのである。

 私は明治の偉人の中でも鉄舟は最も好きな人物で、私利私欲を持たず、豪胆で、そのくせ人一倍の思いやりも持ち、尊敬に値する人物だが、残念だが禅の極意には到達していなかったのではなかろうかと思われることがあるエピソードから窺われた。

 それは鉄舟が、弟子の嘔吐したものを「浄穢不二」といって自らの口で以って食べ尽くしたということである。真に悟りに到達していれば浄も穢も仮称で、浄とは、すなわち浄に非ず、これを浄と名づく、穢とは、すなわち穢に非ず、これを穢と名づく、であり、それぞれに付けられた名称には、そう名づけねばならない根拠など何一つなく、便宜上名づけられた仮称であり、汚いものを清いと仮称するも、清い物を汚いと仮称するもどちらでもよいが、仮に汚いものを清いと呼称しても、ただ単に清いと呼称しただけで実体は汚いことには変わりない。なので、浄穢不二と言って汚いものときれいなものを同等に扱うことは誤りなのである。

 浄土真宗の源信僧都が千菊丸といった幼少の頃、一人の旅の僧が汚い小川で手を洗っていたので、千菊丸はあちらの川の方がきれいですよと教えたところ、その旅の僧は千菊丸に礼を言ったあと、諭すように「浄穢不二」と言った。つまり浄も穢も二つでなく、もともとは一つで有り、二つに分けるのは迷う心があるからで、自分は迷う心がないのだという意味で「浄穢不二」と言ったのかも知れない。
 しかし、千菊丸が「浄穢不二」ならどうして手を洗うのですか、と尋ねると、旅の僧は一言も返すことが出来なかったという。

 真に悟りに到達すれば汚いものは汚いのであり、決して清いという筋合いのものではないことが分かる筈である。この僧は「浄穢不二」の解釈を誤り汚い小川にも拘わらず手を洗ったのである。

 だから鉄舟の場合も、嘔吐物を「浄穢不二」といって口に入れるのは大いなる誤りで、それ故、鉄舟は剣の奥義には到達したが禅の奥義には到達しなかったと思わざるを得ないのである。だからといって鉄舟の人間性が少しでも損なわれることがないことは口を大にして言いたい。私などが足元にも及ばないほど偉大な人物で、悟りの哲理を以ってしてもその人間性にはかなわない。

 夏目漱石が鎌倉円覚寺に参禅したことは衆知の事実であるが、そのときの管長は、鈴木大拙氏の師であった前述の釈宗演である。私はどうしても釈宗演が悟りに到達した人とは認証することは出来ないが、むろんそんなことは当時の漱石は知る由もない。

 小説「門」では、釈宗演は漱石に、「父母未生以前本来の面目」(父母もこの世に生まれていない時の本来のお前とはどういう存在だったのか)という公案を与えたことになっているが、実際のところは「無字」の公案を与えたらしい。漱石はそれに対して「門」には書かれてないが「人あって物あり、物あって人あり」という見解を示したらしい。

 小説「門」から少し抜粋して見るが、「無字」の公案に対する漱石の見解だと置き換えて読めば興趣があらたになる。

 この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。すなわち(人あって物あり物あって人あり)
「もっとぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」と忽ち云われた。
「その位なことは少し学問をしたものなら誰でもいえる」
 宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音が激しく響いた。


 それ位なことは少し学問をしたものなら誰でもいえるなんて言葉は、漱石の素性を見越しての一蹴である。それに、ぎろりとしたところを持って来なければと駄目だ、と云うが、公案の答えにはぎろりとしたところなどは全然必要ない。ぎろりとしたところということ自体すでに誤った応答なのである。
 わたしから言わせれば釈宗演自体が、「無字」の公案にしろ「父母未生以前本来の面目」の公案にしろ、「法」に適った正しい見解を答えることができない禅匠にしか見えない。残念なことに、明治以降の禅林ではそういった禅匠たちで溢れているといっても過言ではない。

 釈宗演に限らず、鈴木大拙、原田祖学、井上義衍、その弟子の原田雪渓と名のある禅僧、禅学者のいずれも悟りを誤った理論で解説している。説くものもなく、示すものもないものを説くと言う、矛盾を矛盾と感じない偏向的思考に捕らわれている事に本人達は気付いていないのである。

 近年本物の解脱者に出会うことは夜空の新星を見つけるよりも難しい。たしかに、道(法)の極意は、そのままに伝えると曲解される恐れも無きにしも非ずで、だからこそ、不立文字、教外別伝にしたのであるが、しかし、不立文字、教外別伝にしたことから、仏教を曲解した者たちを多く生んだのも事実である。

 江戸時代には、補陀落(観音が住むという山)は海の彼方にあるといって、小舟で沖に乗り出し、そのまま海の藻屑となってしまった僧もいた。その他にも、生き仏になるのだといって、地中に穴を掘って、坐禅を組んだまま死んでいった僧もいる。すべて仏教を誤解しての行為である。現代でも似たような話はいっぱいある。オウム真理教のような、インチキ教義を信じて、殺人行為まで起こした信者たちと、海の藻屑や地中のミイラとなった者たちと、果たして違いがあるだろうか。

 世界にはいろいろな宗教がある。どんな宗教であれ信仰を持つことは決して悪いことではない。信仰を糧として自からを高め、善良な人間になるべく邁進できればそれに越したことはない。
 しかし、行き過ぎた信仰は決して良くない。行き過ぎた信仰は心が片寄っているからである。心が片寄るとそれはもう病なのだ。病となったらそれは正常ではないということである。

 われわれが何気なく使っている言葉に「恋の病」という言葉がある。この言葉を聞いたとき人は概して好意的に判断したり、時には笑いながら同情したりすることがある。しかし、「病」と名付くからにはウラを返せば正常でないというだ。その「病」が誰にも迷惑のかけないものだったらよいが、ときにはストーカー行為に走ったり、もっとひどいのは殺人行為まで起こす事である。このように「病」というものは「恋の病」に限らず全て正常ではないということである。

 柳生新陰流の「兵法家伝書」にはこう書いてある。
「勝たんとひとすぢに思うも病なり。兵法つかわんとひとすぢに思うも病なり。習いのたけ出さんとひとすぢに思うも病なり。かからんとひとすぢに思うも病なり。待たんとばかり思うも病なり。病を去らんとひとすぢに、思いがたまりたるも病なり。何事も心のひとすぢにとどまりたるを病とするなり。このさまざまの病、皆心にあるなれば、これらの病を去って心をととのうることなり」

 一つの考えに固執することを固定観念という。固定観念はまさに病といっていいのである。真剣勝負では固定観念に捉われた者は斬られて死ぬしかないのである。勝とう勝とうとばかり心が集中すると、背後に敵がひそんでいても、足元に石があっても気付かず、不意に斬りつけられたり、転んだりして命を落とす。

 宗教家の恐いところは多くの人が固定観念の持ち主であるからだ。むろんそうでない人もいるだろうが、中世のキリスト教では、地動説を支持したジョルダノ・ブルーノはローマ教会の圧迫を受け火刑に処せられ、ガリレオも宗教裁判で迫害され、もっとひどいのは多くの人が「魔女裁判」にかけられ殺されたことである。

 魔女か魔女でないかを判断する「水審判」なるものは、魔女らしき人間を縛って水中に入れ、沈んだ時は無罪、浮かんだ時は有罪とし、有罪の時は火あぶりの刑にした。どっちにしろ縛られた人間は助からない。こんな不条理を平然と受け入れるところに、固定観念に捉われた者の恐さがある。これを「病」といわなければなんというのか。

 イランでは宗教者達が政権を取ったとき、宗教者による裁判だけで反対派は次から次へと処刑していった。まるっきり独裁国家と同じ手法である。
 今回の同時多発テロ事件で、飛行機乗っ取り犯のマニュアルが報道されていたが、その中に、目的を達成したら(ビル突入)すぐさま天使があなた達を迎えに来るだろう、なんて一文があったが、本当に犯人達がそれを信じていたとしたら恐いことである。まさに病コウモウである。どんな神にしろ無差別に人を殺していいと容認する神がいるわけがない。神の名を利用した犯罪であり、それこそ神を冒とくするものであり、彼らこそ真っ先に地獄に落ちることは間違いない。

 心とは柳生新陰流のいうように、「何事もひとすぢにとどまりたるを病とするなり」で、常に片寄ることを避けねばならない。思想や主義主張などに走る場合も同様である。

 人類がはじまって以来、いろいろな思想や主義が唱えられた。しかし、いまだかって人類が皆幸せになるといったユートピアのような世界は実現していない。これからも人類は未来永劫にわたってそのような思想やイズムを生み出すことはできないだろう。なぜなら、人間は十人十色で、あちら立てればこちら立たずで、それぞれが平和的に共存できるそんな都合のよい理論が完成するはずがないのである。

 もし一つの思想やイズムに納められるようなそんな理論があるとしたら、とっくに過去の偉人たちによって、発見公表されているはずである。有史いらい何千年と経っているにもかかわらず、いまだにそれが発見されていないということは、これからもそんな夢のような理論は未来永劫にわたって発見されないということである。

 いままでにゴマンという何々主義なるものが提唱されてきたが、そのほとんどが潰えていったことを考えても分ることである。なのにひとは、新しい思想や宗教が出るたびに、これこそが自分の探していた思想、宗教と言わんばかりに飛びついていく人が多い。ある特定の物に心が捉えられるということはすでに病なのである。
 心とは常に平衡にして臨機応変に対処して行かなければならない。

 平和は人類の誰しもが願うものだが、その平和ですら固執することは間違いなのである。聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおひねのおう)は人望の厚い人だったが蘇我入鹿に攻められたとき、聖徳太子の「和をもって尊しとなし・・・」を順守して、一族全員自害した。しかし、聖徳太子ですらいざという時は戦ったのである。「和をもって尊しとなし・・・」はあくまでも太子の理想論で、一族が自害してまでそれを固守することは決して太子の本意ではなかったはずである。山背大兄王は固定観念に捉えられて聖徳太子の本意を察することが出来なかったといえる。

 悟った人間と悟らない人間の違いなんて大したことがない。悟ったからとて超人になるわけでもなし、煩悩がなくなるわけでもなし、人類を救済できるわけでもなし、もちろん、世界を変えられるわけでもない。ただ悟った人間は生老病死において迷わないというだけである。

 世間には悟りを慫慂するような寺院や書物が巷に氾濫しているが、人格を一変、或いは変容するような悟りなんてものはこの世に存在しない。人格の最高極致のように喧伝されている悟りなんてものは言葉だけが一人歩きしている実体のない陽炎のようなものである。

 禅宗では、悟りを開くと、涅槃寂静の境地に至り、一切の煩悩から解放され常に平穏の内に過ごせるかのように記述しているが、パチンコや競馬などのギャンブルに長年興じていた人間が、ギャンブルとは所詮勝てないものだと悟ったというような悟りというボキャブラリーは存在しても、すべての煩悩から解放されるような悟りなるものはこれぽっちも存在しない。

 そもそも悟りを開くなどという表現が誤りで、仏教本などでも、釈迦は悟りを開いたと言う風によく書かれているが、これは明らかな間違いで、釈迦は悟りを開いたのではなく、生老病死の問題を解決すべく日夜苦心惨憺して、ついに答えに到達し、ああ、そうだったのか、何だそうだったのかと、悟ったと言うのが真相である。

 禅の奥義を極めた臨済を始め多くの禅僧たちも、ああ、そうだったのか、何だそうだったのかと、道あるいは法を悟ったのであり、別次元のように語られている悟りなるものは、どこをさがしても存在しないと言っても過言ではない。

 禅の奥義とは絶対不変の一法(真理)が存在するばかりで、一法の存在を知ることが俗に言う悟りだが、これはあくまでも解ったという意味の上等語でしかなく、世間は、悟りを誤って解釈、喧伝し、それに感化されてこれまでに多くの人生を誤った者がいたことも確かである。

 釈迦は成道してからも、常に坐禅を組み、悟った物を縦横無尽に解剖し、さまざまな仏教理論を確立していったのである。直心影流の秘伝道歌に

     数々の業は多しといふとてももとは一つのものと知るべし  

 という歌があるが、仏教も同じ経緯を辿ったといえる。

 釈迦が第一に注目したのは心である。 心こそ全ての源であり、喜怒哀楽の他さまざまな煩悩もすべて心が生み出しているが、その心とはどういうのものであるかを揣摩していったのである。心とは、本来、何もない所から生じた実体のないものであり、その実体のないものに全ての人間は左右され振り回されているのである。そのことを禅では、応無所住而生其心(応に住する所無くしてその心生ずべし)というのである。

 我々は花を見て、きれいと思うが、きれいと思う心は、花を見る直前まではまるっきりなかったのであり、いってみれば、不意に現われた実体のないかげろうのようなものであり、そのかげろうによって我々の人生は一喜一憂しているといっても過言ではない。

 仕事がつらいと思うとき、つらいという心は、どこからともなく沸き起こってきた実体のない想念であり、同じ仕事でも人によってはそれほど苦痛でもなく、反対にその仕事を楽しんでいる人もいるかも知れない。あるいは、つらいと思った人も、日によっては楽しいと感じるときがあるかも知れない。このように心とは得手勝手なもので、心を統御することが、幸せな人生につながると、「法句経」も説いている。 

 我々はいま生きているが、生きていると判断しているのは心であり、心とは無相、無住で実体のないものであり、実体のない心が判断したことは、裏返して考えれば、生きていないということでもあり、生きていなければ死ぬこともないのである。般若心経の不生不滅とはこういうことを言っているのである。

 維摩経でもこう言う。一切法とは幻のごときものにすぎない。一切のものが没する、滅する、なくなるというのは幻のような虚妄の存在が否定された状態であり、真実の存在は、生ずることも没することもない不生不滅が真の相(すがた)なのである。

 善と悪、美と醜、浄と垢、増と減というような全てこの世で対立するものは、無相、無住の実体のない心が名づけた仮称でしかない。芭蕉慧清は説法でこう言った。 「お前が杖を持っているなら、わたしは、お前に杖を与えよう。おまえが杖を持っていないのなら、わたしは、お前から杖を奪おう」 

 これは無門関四十四則の公案であるが、この意味の、持つ、持たないの語句は、無相、無住の心が名づけた仮称でしかなく、持つという本来の意を、持たないと解釈し、持たないという本来の意を、持つというふうに解釈すればこのいっけん矛盾する言葉の意味が解けるのである。持つ、持たないの仮称に拘わらなければ自在に変換することも可能で、維摩経ではそれを不二(ふたつでない)といっているのである。これは執着心に捕われることを嫌う禅者の智慧なのである。

 のちに、大い慕てつ(だいいもてつ)は云った。「わたしは違う。お前が杖を持つなら、わたしはお前から杖を奪い取ろう。お前が杖を持たないなら、わたしは、お前に杖を与えよう。わたしのやり方はこの通りだ。誰でもいいが、杖をよく用い得るか否か。もし用い得るならば、徳山が先鋒となり、臨済が後衛となろう。だが、もし用い得ないならば、また杖を元の主に返そう」 

 道を求める者たちに対して、大慕と芭蕉はまったく正反対の暗喩をするが、持つ、持たないが、無相、無住の実体のない心によって、仮に名付けられた概念であると思えば、芭蕉の云ったことと大慕の云ったことは、まったく矛盾しないのである。華厳経も、世間種々の法、すべてみな幻のごとし、もしよくかくの如く知らば、その心動くことなし、と説いている。

 悟りはたしかに道の奥義といえるが、仏教としては、それは完成されたものでなく、いってみれば中継点で、悟りを基本にさらに考えを推し進めたものが仏教理論である。釈迦が悟りに到達した後も常に坐禅を組んでいたのもその為であり、白隠禅師なども、大悟六七回、小悟その数知れずと言っていることもそれを物語っている。それを禅では聖胎長養という。

 悟りに到達した者の問答は、終始一貫「法」を根拠に応答するので狐疑逡巡することはまずない。鈴木大拙氏はそこのところを「禅問答と悟り」でこういう風に書いている。

 禅問答の独自性は撃石火、閃電光でぐずぐずを許さぬ。早いが芸だというのではない。石を叩けば火が出る如く、響きの声に応ずる如く、計較(けいこう。はかりくらべること)を待たずして、自然に問答に応酬されねばならぬ。何と対えんものかと知解をはたらかしていては、禅はもうそこにはない。

 極意に到達した限りはぐずぐずした応答は許されぬといった雰囲気のようなものが存在していることは確かである。よく言えば禅問答は、思慮を測る、悪く言えば言葉遊びに興じているといった感じが無きにしも非ずだ。

 喝とか棒を食らわすのは言葉に詰まったときの手段と言っても過言ではない。喝とか棒を食らわしても別に「法」に悖ってないからである。喝や棒がいつごろから使われたのか、またも禅史に疎い私はあまり知らないが、臨済や徳山以前にはあまり使われていなかったような気もする。

 それでも、ときには喝や棒を思いつかず、しくじった禅僧のいたことも臨済録に載っている。臨済が行脚して竜光のところへ行った時、ちょうど竜光が説法していた。臨済は進み出て問うた。

「鉾先を交えないで、どうしたら勝つことができますか」

 竜光はきっと居ずまいを正した。(居ずまいを正すことが質問に対する答えならば法には悖ってないので竜光には責められるべきものはない)しかし、臨済はさらに追求した。

「大善知識よ、何か別に適当な方便がございませんか」

 竜光は目をみはって嘆声を発した。臨済は手を挙げ竜光を指していった。「このおやじ、今日はしくじったぞ」 嘆声を発したことが「法」に悖るのである。竜光は喝をするなり臨済を打つなり、あるいは「今日は忙しい」とでも答えていたら、しくじったなどと言われずにすんだのである。

 悟りに到達した者と、未だに到達せざる者の問答の違いは、悟りに到達した者の問答が終始一貫「法」を根拠に応答しているのに対して、悟りに到達せざる者の応答は「法」を離れた処にあるからである。 

 釈宗演が夏目漱石の見解に対して、「もっとぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」と応答したことは「法」に悖っているので、わたしは釈宗演は悟りに到達していないと判断したのである。
鈴木大拙の誤り 一無位の真人とは 即非の論理の誤り これが神の存在する証拠だ ヒット曲は簡単に作れる(80%以上の確率でヒットすると思われる演歌を掲載)

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