一無位の真人(しんにん)とは

 一無位の真人とは、臨済は言った。「この赤肉団上(肉体のこと)に一無位の真人がいて、常にお前たちの面門を出たり入ったりしている。まだこの真人を見届けていない者は
 
 「さあ看よ! さあ看よ!」

 この言葉を聞くと、修行僧たちは、悟りに到達すると、自由闊達な真正の自分、つまり一無位の真人(そういった意識)が体を自由に出入りし、あらゆる差別を超越した大自由、大自在の境地になれるものだと思わない者はいないだろう。宗教学者や禅僧たちまでが、知ったかぶりして一無位の真人を真摯に解説している者もいる。

 しかし、これは悟りに到達して得意げになっている臨済の、上から目線の最もらしく作った造語で、よく先行した者があとに続くものに優越感を持って幻惑するようなヒントを与えたりする心境と酷似している。

 たぶん本来の自己を、臨済一流の言い回しで飛躍して言ったものと思われるが、真に親切心があるならば一無位の真人なんてまぎらわしい言い方はすべきではないと思う。聞いた者はよけい混乱するだろう。 釈迦以降、悟りに到達した者は、六祖慧能、南嶽、馬祖、南泉、百丈、趙洲、雲門、徳山、仰山、黄檗その他ゴマンと居るが、だれ一人として一無位の真人なんて言葉はおろか、それに類似したような言葉を述べたものはいない。

 わたしは臨済と同じ禅の奥儀に到達したが、もし、わたしが臨済と同じように修行僧たちにヒントを与えるとしたら、やはり上から目線で宇宙の一握を実感せよ、とでも言うだろうか。すると修行僧たちは、悟りに到達すると、宇宙を一握できるぐらいの壮大な心境に浸れるぐらいに思うのではないだろうか。

 しかし、これは、わたしが最もらしく作った、悟りとは何の関連もない造語である。先行した者はどうしても上から目線になりやすいものである。しかし、そういった態度は人間として間違っているのである。

 べつに悟りに到達しても、宇宙を一握できるような壮大な心境になれるわけではない。しかし、悟りの何たるかを知らない修行僧たちは、ひょっとすれば金科玉条のように宇宙の一握にこだわってしまうかも知れない。 もっとも融通無碍の法をもってすれば宇宙を一握できぬこともないが、それは芥子粒に須弥山を閉じ込めるのとおなじような、「法」の世界での話であって現実味は乏しい話である。

 だから、禅を学ぶ人たちは、いかにも最もらしい一無位の真人なんて造語に惑わされぬことである。何回もいうが、一無位の真人なんてものは、悟りとは何の関連もない、臨済が上から目線で、言い得て妙に作った造語でしかない。
 

 北宗禅の臥輪禅師の偈に 、伎倆あり、よく百思想を断ず。境に対して心起こらず、菩提は日々に長ず。(わたしには巧みな技能があって、百種の妄想を断ち切ることができる。対象に向かっても心は動かず、悟りへの道は日に日に成長している)

 と、いうのがあるが、この偈を聞いた慧能は、この偈は心の根底がまだ分かっていず、この通りに実行したならば束縛を増すばかりだとして、次のような偈を示して 臥輪禅師の誤りを暗に指摘した。

 伎倆なしに、百思想を断ぜず、境に対して心しばしば起こる。菩提なんぞ長ぜん。(わたしには巧みな技能などない。百種の妄想を断ち切りもしない。対象に向かって心はそのつど動く。悟りへの道がどうして成長しようか)

 禅の奥儀を極めたわたしには、慧能の偈こそ真実とわかる。もし臨済の時代に慧能が生存していたならきっとこういうだろう。

 「わたしには、一無位の真人なんてものは、影も形も見えない」  
 
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