神の存在の証明(霊界からの証言)

 神は存在しているのです。シルバーバーチの霊訓では神とはこのように述べられています。

 神とは何でしょうかの質問には 神とはこういうものですと、ひとまとめにしてお見せすることはできません。無限なる存在だからです。いかなる言語も概念も説明図も有限です。小なるものが大なるものを包含することはできません。ただ宇宙をご覧になれば私のいう大霊(神)がいかなるものかが、いくらかはおわかりになるでしょう。あくまでも自然法則によって規制され、千変万化の現象のすみずみに至るまで配列が行き届いています。極致の世界から荘厳をきわめた極大の世界に至るまで、生を営み運動し呼吸するもの、要するに宇宙に存在するものすべてが、大自然の法則によってコントロールされています。
 
 創造された私たちに、どうして創造者が叙述できましょう。無限の壮大さをもつものを、お粗末な概念でしか描けない私たちにどうして叙述できましょう。大霊(神)は人物ではありません。神々しい個的存在ではありません。個的存在を超えたものです。摂理と愛と英知と真理の究極的権化です。大霊は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜなら、すべてが不変にして不滅、完璧にして全能の法則によって治められていることを悟れば、完全無欠の公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構のなかにあって、だれ一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。
 
 大霊とは、宇宙の自然法則のことです。顕幽にまたがる全生命の創造力です。完全なる愛であり、完全なる英知です。大霊は全宇宙に瀰漫(びまん)しています。あなた方がご存知のその小さな物的宇宙だけでなく、まだご覧になっていない宇宙にも瀰漫しています。その法則として働いているものは一体何か。無限なる存在です。旧約聖書に出てくる巨人のような人間ではありません、復讐心に満ち、機嫌を損ねると地上に疫病をまき散らすような、そんな気まぐれで憤怒に燃えた神ではありません。大霊はすべての生命にも充満しています。あらゆる存在の内部に息づいています。あらゆる摂理にも大霊が宿っています。生命であり、愛であり、すべてです。


 大霊はこの広大無辺の宇宙で絶え間なく作用している無限の知性です。因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力を持つ者はいません。刈り取る作物は播いた種から生じているのです。神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用します。すなわち、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。

 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでもずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です。利己主義のタネを播いた人は、利己主義の結果を刈り取らなければなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑な人は、不寛容と頑固の結果を刈り取らねばなりません。

 ある花のタネを蒔けば、そのタネの花が咲き、それ以外の花は咲きません。あなた方の未来も同じです。過去と現在によって決定されるのです。外部から与えられる罰ではありません。自分でこしらえているのです。

 あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも、霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも、霊の力のお陰です。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活を与えられているのです。

 物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それが一時的に間借りしている宿にすぎません。霊の力は、あなた方が“神”と呼んでいるもの、そのものです。もっとも、その神を正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意味を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が、かっては火の固まりであったものを今日ご覧になっておられるような生命あふれる緑の地球にしたのです。

 私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのです。因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力を持つ者はいません。刈り取る作物は播いた種から生じているのです。

 腹黒い実業家については、「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時がくるのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目にはいずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです」

 世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても、天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした秩序の世界には、偶然の要素の入る余地はありません。

 墓場で人生は終わるのではなく、苦難の生涯を送った人や挫折の人生に終わった人にも埋め合わせとやり直しのチャンスが与えられ、地上界のために貢献しながら逆賊の汚名を着せられた人にも、悔し涙をぬぐうチャンスが与えられるのです。

 生命は死後にも続くのです。続くからこそ、愚かにも地上で威張り散らし、自然の摂理も逃れられるのだと思い込んでいた者は、その誤りを矯正するための試練を体験しなければなりません。そうした事実を知って、少しもおそれを抱く必要はありません。他人を思いやり慎み深い生活を送っている人は、何一つ怖がることはありません。怖がるべきは、利己的な人生を送っている人達です。

 全生命を創造した力は、その支配のために、規則ないし法則、あるいは摂理というものを用意したのです。その背景としての英知も機構も完璧です。全ては霊的なものです。すべての生命は霊的存在だからです。生命が維持されるのはその本質が物質ではなく霊だからです。霊は生命であり、生命は霊です。

 宇宙は道義的な意図で満ち溢れており、非道義的意図は大霊(神)の摂理に反します。人生に偶然はありません。偶然の事故というものもありません。偶然の一致というものもありません。全ては普遍の自然法則によって支配されています。私達は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすこともできません。自分が自分の救い主であり贖(あがな)であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのです。

 
人間はみな地上生活の行いの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。その行いのなかに過ちがあれば、その一つ一つについて然るべき償いを終えるまでの霊性の進化は得られません。

 善い行いをすればそれだけ霊性が増します。利己的な行いをすればそれだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行
がもたらす結果から逃れられるというものではありません。地上では特定の神を信じれば救われ、反対にその組織が崇拝する神を崇拝せね救われないと説く宗教がありますがそのようなことはありません。神とは自分が崇拝されたからと言って喜ぶような人間的存在ではありません。もしそうであれば神の公正が根源から崩れてしまいます。邪悪で利己的な人生を送った者が、神を崇拝したからと言って素直で利他愛に富んだ人生を送った者を差し置いて神の恩恵に浴することがありえましょうか。

 神を崇拝し自分は選ばれた一人のつもりになり、宗教的行事に傾倒している人間よりも、転んだ人に手を差し伸べ、飢えた人にパンを分け与え、悲しみに打たれている人に励ましの言葉を掛ける無神論者の方が遥かに神に近く尊い人物です。

 宗教に教義、経典、教祖、礼拝堂、賛美歌は必要ありません。宗教とは利他愛の実践、一言で言えば「サービス」これにつきます。大切なのは利他愛の実践であって、神を信じるかどうかは関係ありません。神を信じるかといって神から寵愛される訳でもなく、また神を信じないからと言って罰せられることもありません。


 
自分のしたことはすべて自分に返る、つまり、賞罰は自分でこしらえているというのが、宇宙の摂理でもあるからです。その摂理は自然災害にも当て嵌まるのです。アラン・カルデックの「霊の書」では自然災害が偶然ではないと次のように語られています。

「食べ過ぎると胃腸の調子がおかしくなります。神はその不快感をもって各自の限度の基準としています。その限界を超えると神が罰するということです。同じ事が他の全ての事について言えます。何事にも摂理(親切、寛容、同情、奉仕)によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。”それで充分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです。」

 ──神は何の目的で自然災害という破壊をもたらすのでしょうか。

 人間の進化に拍車をかけるためです。精神的新生のためには破壊も必要です。新しく再生する毎に霊的浄化において新しい一歩を踏み出すのです。何事につけその過程を正しく理解するためには、結果を見届けなくてはいけません。人間はとかく我が身に置き代えて判断するために、苦しいことはみな災害と考えがちですが、新たな秩序をもたらすためには思いきった混乱を必要とする時があるのです、それまでの平穏無事の惰性では何世紀も要するような改革が二、三年で成就されることがあります。

 ──神はそういう破壊の手段以外に何か別の手段を取ることができないのでしょうか。

 「取っておられます。日常生活の中での善悪な判断を通じて進化を促すという方法です。ところがこの方法ではなかなか人間は向上しません。そこで、その高慢の鼻をへし折り、人間の弱さを思い知らせる必要が生じるのです」

 ──ですが災害による犠牲は、邪悪な人間だけでなく善良な人間も悲嘆に暮させるだけではないでしょうか。

 「人間は、地上を旅する間の出来事は、どうしてもその肉体の生存期間を尺度として捉えます。ところが死んで霊界に戻ってくると観点が大きく変わり、地上時代の一世紀は永遠の時の中では一瞬の花火のようなものに思えます。そして地上の時間にして何日、何ヶ月、何年にもわたる苦しみもどうということはないように思えてくるのです。どうか、この点を今後のあなた方の生き方の参考にしていただきたい。霊こそ実在であり全てのものに優先し、全てのものが消滅したあとも残り続けます。その霊の在り方こそ神が何より気遣うものであり。肉体は地上を生き抜くための仮の媒体にすぎません。

 多くの尊い人命を奪う大災害におけるそうした犠牲者たちは、戦闘後の兵士のようなものです。軍服はボロボロに破れ、あるいは千切れあるいは無くなっているかも知れません。が、生命(いのち)は失っていない。その姿を見て将校は軍服のことよりも生命があったことを喜ぶものです。

 
シルバーバーチの霊訓では、死は肉体に閉じ込められていた霊が牢獄から解放されたようなものであると語っています。

 
あなたは
肉体を備えた霊的存在です。霊を備えた肉体的存在ではありません。決して肉体という鈍重で低俗な存在ではありません。死を迎え古い衣服を脱ぎ捨てるように肉体から離れる時がくれば、あなたが住むべき霊性に応じた本来の世界へ行きます。そこが地上に近い幽界付近(霊界で最下層の位置)であるか高級霊の住む世界であるかはあなたの霊性の程度によります。神を崇拝しようが宗教に入ろうが関係ありません。あなたの内面、霊性に応じた世界へ赴きます。地上と霊界の異なる点は地上では様々な霊性の霊が肉体をまとう事により一緒に生活していることです。

 死ぬということは決して悲劇ではありません。むしろ今その地上で生きている事こそ悲劇といっても良いくらいです。大霊の庭園(地球のこと)が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もない状態となっていることこそ悲劇です。

 死ぬということは、肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に帰ることが、果たして悲劇なのでしょうか。天上的色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのでしょうか。

 ──この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感あるのでしょうか。

 「
地上よりはるかに実感がありしっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界のほうが実在の世界で地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません。

 
悪行を続ける者に対しては、霊界からこう言っています。

 
そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で罰する時がくるのです。 中略 私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです。

 さて苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神または魂が苦痛を覚えた状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません。

 「バイブルにはイエスはわれわれのために苦しみを受けたとあります」の質問に対して、バイブルには事実でないことが沢山述べられています。いかなる人間も自分以外の者のために代わって苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない。他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっちあげた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰かほかの者が背負ってあげることができたとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。

 善は自ら報酬をもたらし、悪と罪は自ら罰と断罪を受けると私は説くのです。向上するのも堕落するのも本人の行為一つに掛かっているのです。人生のあらゆる側面を神の摂理が支配しており、それをごまかすことも、それから逃れることもできません。
 
 つまり地上に別れを告げて霊の世界へ移られると、誰がするというのでもなく、自家作用によって、自分で自分を裁くことになります。その時の判決の基準は地上で何を考えたかでも、何を信じたかでもありません。世の中のためにどれだけ自分を役立てたかということです。

 その法則(因果律)が構想においても、働きにおいても、完璧であるからには、当然その中に人間的な過ちに対する配慮も用意されているにきまっております。埋め合わせと懲罰が用意されております。邪悪の矯正があり、過ちと故意の悪行に対する罰があり、何の変哲もなく送った生活にもきちんとした裁きがなされております。

 
何の変哲もなく送った生活ですら過ちだというのです。基本は人の為に役立つように生きることが正しい生き方だからです。因果律は現世で達成されるとは限らないそうです。いつ達成されるかという時期の問題になると、それは原因の性質如何にかかわってくるそうです。霊界からはこう言っています。

 
地上では必ずしも正義が勝つとは限りません。なぜなら因果律というものは必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。

 しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録されそれ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな
事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である”霊の進化”にあることだけは確かです。

 
どっちにしろ死は、悪事を働いた者以外は、肉体からの解放を喜ぶべきものであり、決して悲しむべきものではないと言うのです。善良な者の死と、悪徳を働いた者との死は、霊界で歴然と差が生じ、悪徳を働いた者は暗黒のオーラで我が身を包み何百年ももだえ苦しむそうである。 リンク これが神の存在する証拠だ 歎異抄の誤り                         
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