鳥羽城
所 在 地 | 三重県鳥羽市鳥羽 | 別 名 | 鳥羽の浮城 錦城 |
遺 構 | 石垣 曲輪 | 形 式 | 平山城(海城) |
築 城 者 | 九鬼嘉隆 | 築 城 年 | 文禄3年(1594) |
歴 史 | 鳥羽城は、九鬼嘉隆により築城された。築城は天正13年(1585)に開始されたが、文禄3年(1594)に完成し、本拠を波切城から移した。 九鬼嘉隆は、同族の争いのなか、織田信長に仕えて志摩一国を支配するようになる。石山本願寺の第二次木津川合戦では、鉄甲船を主力とする九鬼水軍を率いて、毛利水軍を破った。本能寺の変の後は、豊臣秀吉に属した。朝鮮出兵した後、嫡男・家督を守隆に譲る。関ヶ原合戦では、当主の守隆は東軍に、嘉隆は西軍にと別れる。西軍が敗れた後、嘉隆は切腹して果てた。 寛永9年(1632)、守隆が没すると、5男・久隆と、3男・隆季が家督を争い、幕府の評定により、久隆は摂津三田に、隆季は丹波綾部に転封された。 翌、寛永10年(1633)、内藤忠重が入封する。天和元年(1681)、内藤氏は改易され、土井利益が下総古河から入封する。 元禄4年(1691)、松平(大給)乗邑が肥前唐津より入封する。宝永7年(1710)、板倉重治が伊勢亀山より入封する。享保2年(1717)、松平(戸田)光慈が山城淀より入封する。 享保10年(1725)、稲垣昭賢が下野烏山より入封する。以後、稲垣氏が明治維新まで在封する。 |
歴 代 城 主 | 九鬼氏2代(3.5→5.6万石)、内藤氏3代(3.5万石)、土井氏1代(7万石)、松平(大給)氏1代(6万石)、板倉氏1代(5万石)、松平(戸田)氏1代(6万石)、稲垣氏8代(3万石) |
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本丸の石垣 |
鳥羽城は、鳥羽の岬の先端部に築城されており、尾根に堀切を切って水堀とし、陸地から切り離した海城となっている。内藤氏のときに、二の丸と三の丸が築かれ、本丸と合わせて城郭として完成された。 現在、本丸と二の丸の跡に鳥羽小学校が建っており、グランドの北側に本丸の石垣やや崩れながらも良好に残されている。また市役所の北側には二の丸の石垣が残っている。 |
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本丸の東側隅の石垣 | 本丸の東側の石垣 |
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二の丸の石垣 | 内藤氏の時代の城の絵図 |
<アクセス> 近鉄鳥羽駅から南へ約300mの城山公園が城跡。鳥羽駅から南の方向へ歩き、「赤福」の横の道を海と反対側へ進むと、中京銀行の向かいに、城山公園入り口の階段がある。この公園から南側一帯が城跡になる。駐車場はないので、鳥羽駅近くの市営駐車場などを利用する。(2009.09.21) |