亀山城

 所 在 地   三重県亀山市本丸町  別 名   粉蝶城
 遺 構   石垣、櫓、堀  形 式   平山城
 築 城 者   岡本宗憲  築 城 年   天正18年(1590)
 歴  史  関実忠が、文永2年(1265)に、若山に築城したのが起源とされる。以後、関氏は亀山城を拠点に北伊勢を支配した。
永禄10年(1567)、関盛信は、織田信長の伊勢討伐の軍に降り、伊勢は織田氏の支配となる。
天正18年(1590)、関一政は、蒲生氏郷に属し、蒲生氏に従って奥州白河城に移った。
天正18年(1590)、 岡本宗憲が峯城より移封されて入城し、現在地に亀山城を築く。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに際して岡本宗憲は、西軍に属し、自刃する。 
慶長6年(1601)、関一政が美濃多良より入封する。慶長15年(1615)、松平(奥平)忠明が三河作手より入封する。元和5年(1619)、三宅康信が三河挙母より入封する。寛永9年(1632)に堀尾忠晴が幕命により天守を取り壊す。
寛永13年(1636)、本多俊次が三河西尾より入封する。寛永18年(1641)に 天守代わりの三階櫓が建造される。
慶安4年(1651)、石川憲之が近江膳所より入封する。寛文9年(1669)、板倉重常が下総関宿より入封する。宝永7年(1710)、松平(大給)乗邑が志摩鳥羽より入封する。享保2年(1717)、板倉重治が志摩鳥羽より入封する。
延享元年(1744)、石川総慶、備中松山より入封する。以後石川氏が明治維新まで在封する。
歴 代 城 主 岡本氏、関氏(3万石)、松平(奥平)氏(5万石)、三宅氏2代(1.2万石)、本多氏(5万石)、石川氏(5万石)、板倉氏3代(5万石)、松平氏(6万石)、板倉氏2代(5万石)、石川氏(6万石)

本丸石垣と、多聞櫓
多聞櫓は原位置に遺存している


縄張りは、本丸、二の丸、東三の丸、南三の丸(西の丸)からなり、二重の堀が廻らされていた。
天守も建てられていたが、三宅氏が城主のとき、丹波亀山城の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が、伊勢亀山城と間違えて、取り壊したという逸話がある。真偽の程は不明のようだ。
現在、城址は小中学校、神社、公園となり、殆どの建物や石垣は取り壊され、堀は埋められたが、本丸の一部の石垣と多聞櫓が保存されている。


現地案内板より


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