備中松山城

 所 在 地   岡山県高梁市内山下  別 名   高梁城
 遺 構   天守、櫓、石垣  形 式   山城
 築 城 者   水谷勝宗  築 城 年   元和元年(1681)
 歴  史  慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、代官として小堀正次・政一(遠州)が入る。
元和3年(1617)、池田長幸が、因幡鳥取より入り、備中松山藩を立藩する。
寛永19年(1624)、水谷勝隆が、備中成羽より、入封する。
天和元年(1681)、二代目・水谷代勝宗のとき、松山城の改築をはじめ、天守・櫓・門などが建てられる。
元禄6年(1693)、三代目の水谷勝美が没し、嗣子なく断絶する。
元禄8年(1695)、安藤重博が、上野高崎より、入封する。
正徳元年(1711)、石川総慶が、山城より、入封する。
延享元年(1744)、板倉勝澄が、伊勢亀山より、入封する。
慶応4年(1868)、七代目の板倉勝静は、老中として徳川慶喜と行をともにし、朝敵となり、備中松山藩は岡山藩に預かりとなる。
明治2年(1869)、八代目の板倉勝弼は、2万石で再興を許され、高梁藩とあらためる。
歴 代 城 主 池田氏2代(6.5万石)、水谷氏3代(5万石)、安藤氏2代(6.5万石)、石川氏1代(6万石)、板倉氏8代(5万石→2万石))


天 守 (現存12天守の一つ 国重要文化財)
(構造) 望楼型
(重・階) 二重二階
(形式) 複合式
(高さ)  約11m
天守初重に巨大な唐破風付きの出窓を設け、二重目の両側に屋根付きの連子の出窓を設けたことが装飾となっている。
現存天守では最も低く、二層天守というのも珍しい。これは山城であるから、高さは必要がないためであろうといわれている。
修築工事中で、足場などに囲まれて細部不明。(2002.11.03現在)


小松山山頂に築かれた本丸を中心に階段城に曲輪を配した山城である。
自然岩盤を利用して石垣が構築されており、山頂の天守も岩盤上に築かれている。
天守は、現存12基の一つである。その他、二重櫓、土塀の一部、石垣も現存している。


本丸

中央 五の平櫓

右  天守

左  六の平櫓
石垣群 天然岩盤を利用して石垣が構築されている

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む