岡山城

 所 在 地   岡山市丸の内  別 名   烏城 金烏城
 遺 構   石垣、堀、櫓、天守(再建)、門(再建)  形 式   平城
 築 城 者   宇喜多秀家  築 城 年   慶長2年(1598)
 歴  史  天正元年(1573)、宇喜多直家が、岡山に築城を始める。天正18年(1590)、嫡子の宇喜多秀家が、本丸を移し、総石垣にするなど城を大改修する。慶長2年(1597)、築城は一応の完成をみる。
慶長5年(1600)、宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いで西軍の主力となり、改易される。小早川秀秋が、関ヶ原の効により、筑前名島35.7万石から、51万石で入封する。
慶長7年(1602)、小早川秀秋が没し、小早川家は無嗣断絶する。姫路城主の、池田輝政の次男の池田忠継が、28万石で入封する。後に、38万石に加増される。
元和元年(1615)、池田忠継は、跡継ぎなく死去する。淡路洲本藩主の池田忠勝が、31.5万石で入封する。
寛永9年(1632)、池田忠勝の没後、池田光仲が継ぐが、幼少を理由に、因幡鳥取藩主の池田光政と国替えを命ぜられる。以後、池田光政の子孫が岡山城を継承する。
貞享4年(1687)、池田綱政が後楽園の造営を始める。
昭和20年(1945)、米軍の空襲で、天守をはじめ多くの遺構が焼失する。
歴 代 城 主 宇喜多氏2代、小早川氏1代(51万石)、池田氏(28万石-38万石-31.5万石)


 天守
五層六階の望楼型天守

入り口は二層二階の付櫓の二階に設けられていた。
天守一階の平面は不等辺五角形、二階は不等辺六角形、三階より上の平面は長方形。これらの構造は安土城天守に似ており、安土城を模したものであるといわれる。
黒漆を塗った下見板張の壁面と、白漆喰の格子窓の対比が鮮やか。


本丸を守る旭川越しの天守         後楽園からみた天守
後楽園は、元和以降築城が制限されているなか、中屋敷造園という名目で作られた出城といわれている。
本丸不明(あかずの)門
コンクリート製外観復元


丸は烏城公園となり、月見櫓、石垣、内堀が現存している。
天守は宇喜多秀家によって建造されたものであるが、米軍の空襲で焼失した。
現在の天守は、昭和41年にコンクリート造りで外観復元して再建されたもの。

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む