安土城

 所 在 地   滋賀県近江八幡市安土町大字下豊浦  別 名    ―
 遺 構   曲輪、石垣、天守台  形 式   平山城
 築 城 者   織田信長  築 城 年   天正5年(1577)
 歴  史  天正4年(1576)1月に、丹羽長秀を総奉行として、築城を開始する。4月に石垣工事が始まる。7月には天主の工事が開始される。
天正5年(1577)、城郭の一応の完成をみる。天正7年(1579)に天主が完成する。
天正10年(1582)6月2日、京都本能寺で、織田信長、明智光秀に討たれる。6月5日、明智光秀が、安土城に入城する。甥の明智秀満に城を託す。6月13日、山崎合戦で、明智光秀は、羽柴秀吉に敗れ、敗死する。6月15日に、安土城と、安土城下が、炎上する。
同年、織田信忠の嫡男、三法師(秀信)が、当主として入城する。城内に「信長廟」を築く。
天正12年(1584)、羽柴秀吉は安土城を廃城とする。
天正13年(1585)、羽柴秀次は八幡山城を築城するため、安土城の残存建物と、城下町を移す。
歴 代 城 主 織田信長、秀信

               大手門跡
掘調査される前、大手道は幾重にも大きく屈曲しており、これは敵の侵入を防ぎ易くするためであると考えられていた。ところが、発掘調査の結果、幕末に、ハ見寺が大手道を塞ぐ位置に再建されたときに、寺を迂回するように大手道が付け直されたためと判明。
現在は、石段が山麓から山腹まで真直ぐに通じるように復元されている。

大 手 道  大手道の石材として使用された石仏
石材に石仏や石塔が多く使われている。侵入した敵兵をひるませるためとか、人柱の代わりに埋め込んだものとか、諸説紛々。真相は不明。


伝羽柴秀吉邸跡 上と下 伝織田信忠邸跡
安土城の古地図によると、大手道の左右に沿って、織田信長の家臣の邸宅が並んでいる。

羽柴秀吉、前田利家、徳川家康(家臣ではないが)、松井夕庵、織田信忠などの名前がみられる。
二の丸の信長廟所
信長の一周忌に、羽柴秀吉が築いたとされる。
           本丸跡
礎石の発掘調査によれば、本丸御殿の平面は清涼殿と同じ。このため、信長は、天皇の行幸を迎えることを念頭において、本丸御殿を造営したと考えられている。


天主台への虎口 天主台の礎石

現地案内板
不等辺七角形の天主台には、五重七階(地下1階地上6階)、高さ107尺(37m)の天主があがっていた。
二重の入母屋造り屋根を基部とし、その上に三重目の入母屋造り屋根を載せ、さらにその上に二重の望楼を載せた望楼型天守であると考えられている。
本能寺の変の後、安土城は炎上したとされるが、発掘調査の結果、焼亡したのは、天主を中心とした主郭部のみで、城域の殆どは残っていたことが判明。
天正18年6月2日の本能寺の変の後、6月5日、明智光秀が安土城に入城する。8日、甥(娘婿ともいわれる)の明智秀満にあとを託して、光秀は上洛する。
6月13日、山崎の合戦で明智光秀が敗れ、翌14日、敗報が安土に届き、明智秀満は本拠の坂本城に戻る。
そして、その翌日の15日、安土城が焼ける。巷説によれば、山崎の合戦の折り、在城していた明智秀満が城を退去する際に放火したという。しかし、明智秀満が坂本城で自刃したときは、安土城はまだ燃えていないのでの、これはあたらない。宣教師ルイス・フロイスも記録してるように、明智秀満が退去した後に、安土に進駐した織田信雄が火を放ったとする説が有力。


安土城は、日本で最初の総石垣作りの城郭といわれる。天主も今までにない壮麗なものである。他の城では「天守」と呼ぶが、安土城では「天主」と呼ばれる。
安土の城と城下は、近江八幡に移されたが、江戸時代、安土山はハ見寺の寺領となり、一種の聖域として保護された。
現在、安土城跡は国の特別史跡に指定され、また平成元年から発掘調査が続けられており、全容が解明されつつある。また、大手道などは、発掘調の結果に基づいて、復元整理されている。

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