観音寺城

 所 在 地   滋賀県近江八幡市安土町石寺  別 名    ―
 遺 構   曲輪、石垣、土塁  形 式   山城(標高433m、比高325m))
 築 城 者   六角氏頼  築 城 年   建武2年(1335)
 歴  史  文治元年(1185)、源頼朝は全国に守護地頭を置いて、平家打倒の支配体制を確立するが、このとき近江守護職に任じられたのが、佐々木定綱。
定綱の子の信綱のとき、三男の泰綱に近江守護職・近江南六郡・京都六角東洞院の館を与え、四男の氏信に近江北六郡・京都京極高辻の館を与えた。
以後、泰綱の子孫が六角氏を名乗り、氏信の子孫が京極氏を名乗り、近江の南と北を分領した。
観音寺城は、近江守護職六角氏代々の居城であるが、屋形は麓にあり、山上の城は詰の城と想定されていたと考えられる。
応仁・文明の乱に際して、六角高頼は山名方につき、細川方の京極持清と戦う。六角軍はしばしば不利になって、観音寺城に立て籠もる。
永禄11年(1568)、六角義賢(承禎)、足利義昭を奉じる織田信長の上洛を実力で阻止しようとするが、信長軍によって箕作山城が落城すると、義賢・義治父子は城を捨てて甲賀・三雲城へ逃亡した。以後、観音寺城は六角氏のもとに戻ることはなかった。
天正7年(1579)、隣接する安土山に安土城が築城された際に、廃城とされるが、安土城の詰の城として残されたとの説もある。
歴 代 城 主 佐々木六角氏歴代


伝 本 丸
本丸内側    伝本丸 裏虎口    本丸外側
伝本丸の表虎口に通じる大手道 伝本丸内
井戸跡

本丸、平井丸、池田丸、布施淡路丸、沢田丸、伊庭丸、三国丸等々、数多くの曲輪があるが、いずれの曲輪にも、石組みの枡形や、石塁、階段がみらる。
安土城に先行する近江の築城技術の高さが窺い知れる。


伝平井丸
伝平井丸の虎口 伝平井丸の外郭石垣


伝布施淡路丸


標高433mの繖山のほぼ全域に築かれた、日本最大級の山城。石垣を多用した初めての城とされる。
最初から大規模なものでなく、高頼のときに大幅な増築・補強・修理を加え、義賢のときに鉄砲の出現に対応した修築を行ない、現在の姿になったとされる。
全山域に築かれた膨大な石垣群は見ごたえ十分であり、圧倒される。


繖山の観音寺城を巡るルートはいくつかあるが、西国三十三箇所観音霊場の第三十二番札所、観音正寺から入るのが、最も手軽。

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