箕作山城

 所 在 地   滋賀県東近江市五個荘山本町  別 名   清水山城
 遺 構   曲輪、石垣、土塁  形 式   山城(325.4m)
 築 城 者   六角氏  築 城 年  不 明
 歴  史  応仁の乱の後、室町幕府軍が近江に侵攻した際に、六角高頼が籠城した清水山城が、箕作山城の前身といわれる。
箕作山城は、六角氏の本拠の観音寺城がある観音寺山(繖山)の南東側に中仙道を挟んで対峙する箕作山の山頂に築かれており、観音寺城の支城である。
箕作山城が明確に歴史に登場するのは、永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛するために、近江に侵攻したときである。このとき、六角義賢(承禎)は観音寺城に加え、箕作山城と和田山城の防備を固めて、信長を迎え撃った。
「信長公記巻一」の記事によると、佐久間信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽長秀・浅井新八らによって箕作山城が攻撃され、午後3時ごろから夜半にかけての戦で城は落とされた。そして翌日、箕作山城に信長が陣を張ると、六角義賢は観音寺城を捨てて逃亡した。
箕作山城は、このときに廃城になったとみられる。
歴 代 城 主


主郭の西の虎口の下側の石垣  主郭 送電線の鉄塔が建てられており、城の遺構は破壊されている。


山本地区の山麓の石垣 石は大きくなく、積み方も稚拙であるが、高さが約2mあり、長さは20m程に及ぶ。箕作山城との関係は不明。 箕作山(清水山) 奥三本目の鉄塔の位置に、山頂の主郭がある。


箕作山城と呼ばれるが、箕作山と峰続きの清水山の山頂にある。山頂の主郭と、東尾根の階段状連郭からなる。主郭は20m×10m程度で、その他の郭はさらに小さい。織田軍の主力が攻撃をしたと記録されている割には、城の規模が小さい。城の遺構の残存状態も、良好とはいえない。


<アクセス>
国道8号線の神埼中央病院の北側の角の信号を東側へ入り、東海道新幹線の高架をくぐると、道端に送電線の鉄塔が立っている。この鉄塔の下に駐車することができる。鉄塔をさらに越えるとすぐ右手に、山へ向かう道がある。この道へ入ると、山への入り口に「平成記念の森」の看板が立っている。ここを右手に入っていくと、写真の山麓の石垣を見ることができる。この石垣の先には登山路はない。
先ほどの看板まで戻って、逆に左手に入っていくと、しっかりした山道が山の奥へと続いている。この道は、送電線の鉄塔の管理用の道のようであり、二箇所の鉄塔をたどった後、三箇所目の鉄塔にたどり着いたところが、山頂の主郭である。主郭に到達するまで、約30分を要する。一本道で迷うことはないが、ほぼ直登していくので、結構きつい。(2009.02.28)


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