近江八幡城

 所 在 地   滋賀県近江八幡市宮内町  別 名   八幡山城
 遺 構   曲輪、石垣、堀  形 式   山城(標高283m)
 築 城 者   豊臣秀次  築 城 年   天正13年(1585)
 歴  史  天正13年(1585)、 羽柴秀次に近江43万石が与えられ、八幡山に築城した。このとき、安土城の残存建物と、安土の城下町を移し、八幡の城下を整備した。
天正18年(1590)、羽柴改め豊臣秀次は、100万石の太守として、尾張・清洲城に移る。代わりに、京極高次が2万8千石で八幡城主となる。
文禄4年(1595)、京極高次は、大津城に移り、八幡城は廃城となり、破却される。同年に、豊臣秀次は、豊臣秀吉の命により、高野山で切腹する。
歴 代 城 主 豊臣秀次、京極高次


山頂の城郭
本丸跡の高石垣

石垣の傾斜は直線的で反りがみられない。
天正年間の城郭の石垣の特徴を示すとされる。

山頂の城郭は、本丸を中心に、二の丸、西の丸、北の丸、出丸が放射状に配置されている。それぞれが高石垣で構築された、総石垣の城である。


本丸跡には瑞龍寺が建っている。
瑞龍寺は、秀次の生母とも(瑞龍院日秀)が、秀次の菩提を弔うために、文禄5年(1596)に京都村雲の地に創建した、日蓮宗唯一の門跡尼寺院で、村雲御所とも呼ばれる。昭和38年に、八幡山の山頂に移築された。
          二の丸跡
現在は、ロープウェーの山頂駅となっている。
           西の丸跡
琵琶湖が眺望され、水茎岡山城のある岡山が遠望される。
           北の丸跡
安土城のある安土山と、観音寺城のある繖山が遠望される。


八幡城を築城した豊臣秀次は、豊臣秀吉の甥(実姉の子)であり、天正19年(1591)に、子供のない秀吉の養子となり、関白の地位を譲られた。しかし、文禄2年(1593)に秀吉に秀頼が誕生すると、両者の関係が悪化し、秀次は秀吉の勘気に触れる。そして文禄4年(1595)、秀次は高野山に追放され、切腹を命じられる。このとき秀次の妻妾、子など一族郎党40名余が京都三条河原で斬られたという。
八幡城は、山麓の居館と、山頂の詰め城からなる。城郭は、織豊時代に入ると居住空間と防御施設が一体になっているが、八幡城ではこれらが分離した中世期や戦国期に逆行した構造になっている。これは、八幡城が築城された天正13年が小牧・長久手の戦いの翌年であり、また関東では後北条氏が控えているので、東国に対する防御線として近江が想定されていたためではないかと考えられている。
築城当時の八幡山は、北から西を津田内湖に、東を大中湖に囲まれており、築城に際して南側に八幡堀が開削された。山麓の城館は八幡堀に囲まれる位置において、標高130mの山腹に平坦地を設けて造営されている。山頂の城郭跡へは、山麓の城館跡の横の八幡公園から、山道を登ること約30分。


山麓の居館跡
大手道と、山麓の居館群の最高所にある秀次館の石垣。

大手道は、八幡堀から秀次館まで一直線に至る。
この大手道の両側には、家臣団の屋敷群が雛壇状に広がる。

秀次館の高石垣 家臣団の屋敷の石垣

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む