清洲城

 所 在 地   愛知県清洲市朝日城屋敷  別 名   −
 遺 構   曲輪、堀切、土塁  形 式   平城
 築 城 者   斯波義重  築 城 年   室町時代初期
 歴 史  清洲城は、室町時代のはじめに、尾張守護・斯波義重によって築かれたのがはじまり。文明8年(1476)、清洲に守護所が移って、尾張の中心地になる。以後、斯波氏の守護代・織田宗家が居城とする。
弘治元年(1555)、織田信長は城主の織田信友を滅ぼし、那古野城から清洲城に移り、城を大改修して本拠とする。永禄3年(1560)、今川義元の尾張侵入に対して、織田信長は清洲城から出陣し、桶狭間で大勝した。
永禄6年(1563)、織田信長は、小牧山城を築いて、清洲から拠点を移した。
天正10年(1582)、本能寺の変の事後処の清洲会議の場となり、清洲城は織田信雄が相続する。
天正13年(1585)、織田信雄は清洲城に居城を移し、大改修する。天正18年(1590)、織田信雄は、豊臣秀吉の転封命令を拒否し、追放される。代わって羽柴秀次が近江八幡城から移り、清洲城主となる。
文禄4年(1595)、 豊臣秀次(羽柴秀次)は、豊臣秀吉により、高野山に追放され切腹を命じられる。代わって福島正則が清洲城主となる。
慶長5年(1900)、 関ヶ原の戦いの後、福島正則は、安芸・広島に転封され、徳川家康の四男・松平忠吉が清洲城主となる。
慶長12年(1607)、家康の九男・徳川義直が、清洲城主となる。慶長18年(1610)、名古屋城の築城が完成し、尾張徳川家の居城が清洲から名古屋に移される。以後、清洲城は廃城となる。
歴 代 城 主 斯波氏、織田氏、羽柴氏、福島氏、松平氏、徳川氏


平成元年(1989)に、旧清洲町制100年を記念して郷土館として建造された天守。
資料が残っていないため、外観を想像して再建された摸擬天守である。黒井羽目板と白漆喰とが調和してそれなりの趣がある。
清洲城天守が再建されている清洲地域文化広場。実際の清洲城とは若干異なった位置にある。


清洲城は、織田信長によって拡張され、さらにその次男の織田信雄によって大改築され、内堀・中堀、外堀を構えた大城郭となり、城下も、名古屋に移る前は人口6万人を越えたといわれる。
城域は、市街地となっているために、発掘された石垣の一部が移転して復元・保存されているだけであり、城跡の痕跡は殆ど残っていない。


本丸南側と想定される位置で発掘された石垣。
場所を移して、復元して保存されている。
野面積みである。


<アクセス>
清州城跡は、名古屋高速と名古屋環状の清州JCTから南東へ約1km。五条橋に架かる清州橋の南100m。公園として整備されており、西側に無料駐車場がある。(2007.12.01)

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