姫路城

 所 在 地   兵庫県姫路市本町  別 名   白鷺城
 遺 構   天守・櫓・門・石垣・塀・堀  形 式   平山城
 築 城 者   池田輝政  築 城 年   慶長6年(1601)
 歴  史  正平元年(1346)に赤松貞範が、姫山に築城したのが、姫路城の始まりとされる。
応仁元年(1467)、赤松政則が、赤松氏を再興し、入城して拡張する。文明元年(1469)、赤松政則は、置塩城を築いて移り、小寺豊織を城代とする。
天文4年(1545)、小寺道慶は御着城に移り、黒田重隆を城代とする。永禄10年(1567)、黒田孝高が、父・職隆のあとを継ぐ。
天正8年(1580)、羽柴秀吉は、織田信長の命により、中国制覇に乗り出す。このとき黒田孝高が姫路城を秀吉に献ずる。秀吉は姫路城を大改修し、三層の天守を築く。
天正11年(1583)、羽柴秀吉は、大坂城に移り、弟・秀長が在城する。文禄4年(1595)、豊臣秀長は、大和郡山に移り、北政所の兄の木下定家が入城する。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの功により、池田輝政が、三河吉田より入封する。慶長6年(1601)、池田輝政は城郭拡張工事始め、慶長14年(1609)に天守完成する。
元和3年(1617)、池田光政は、因幡鳥取に転封する。本多忠政が、伊勢桑名より、入封する。元和4年(1618)、将軍・徳川秀忠の娘・千姫が、本多忠政の嫡男・忠刻に嫁す。このとき化粧櫓などを増築する。寛永26年(1639)、本多政勝は、大和郡山に移封される。松平(奥平)忠明が、大和郡山より入封する。
慶安元年(1648)、松平直基が、出羽山形より入封する。慶安2年(1649)、榊原忠次が陸奥白河より、入封する。寛文7年(1667)、松平直矩が、越後村上より入封する。天和2年(1682)、本多忠国が、陸奥福島より入封する。宝永元年(1704)、榊原政邦が越後村上より、入封する。寛保元年(1741)、松平明矩が、陸奥白川より入封する。
寛延2年(1749)、酒井忠恭が、上野前橋より入封する。以後、酒井氏が幕末まで在封する。
歴 代 城 主 赤松氏、小寺氏、黒田氏、羽柴氏2代、木下氏1代、池田氏3代(52万石)本多3代(15万石)松平(奥平)2代(18万石)、松平氏2代(15万石)、榊原氏3代(15万石)、松平氏1代(15万石)、本多氏2代(15万石)、榊原氏4代(15万石)、松平氏1代(15万石)、酒井氏10代(15万石)


現存する天守群(大天守、小天守を含む7棟)は国宝に指定され、城内の建物74棟は国重要文化財である。
天守、櫓、壁は土壁の表面を白漆喰で白亜に仕上げた塗籠となっており、白鷺城と呼ばれる。


五重七階の大天守と、東小天守、乾小天守、西子天守をイ、ロ、ハ、ニの四つの渡櫓で繋いだ連立式天守
大天守:(構造)望楼型 (重・階)五重六階地下一階 (形式)連立式 (高さ)約31.5mm
大天守は現存天守の中では最も高い。
左 西子天守  右 大天守 ロの渡櫓 中央乾小天守 右西子天守


豊臣秀吉の城は、現在の備前丸、山里丸を中心とした部分であり、天守台は現在の天守の下にある。
現在見られる城は、池田輝政による大改修を受けたものである。このとき、現存の天守が建てられた。
本多忠刻に徳川家康の孫の千姫が嫁いだ際の化粧料で、三の丸と西の丸に御殿を築き、現在の規模になった。


左上の建物 左からワの櫓、ヲの櫓、ルの櫓、ネの櫓、化粧櫓、そしてこれらを繋ぐ百間廊下 上の建物
右側
ぬの門、左側チの櫓
はの門土塀に設けられた狭間 にの門

への門

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