大和郡山城

 所 在 地   奈良県大和郡山市城内町  別 名   犬伏城 雁陣之城
 遺 構   堀、石垣、櫓(再建)  形 式   平山城
 築 城 者   筒井順慶  築 城 年   天正初年(1573)頃
 歴  史  興福寺の僧兵から頭角を現した筒井順昭の子、筒井順慶が、父の筒井城とは別に、郡山城を築いた。松永久秀の滅亡後、筒井順慶は城の改修に着手した。縄張りは明智光秀によると伝えられる。
天正13年(1585)、羽柴秀吉は、弟の秀長に紀伊・和泉・大和で百万石を与え、郡山城を築き直させた。豊臣秀長のあと、増田長盛が入るが、関ヶ原の戦いで西軍に属し、改易された。城は解体され、伏見城築城に使用された。
元和2年(1616)、水野勝成が、三河刈谷より入封する。城は、天下普請で再建される。
元和5年(1619)、松平(奥平)忠明が、摂津大坂より、入封する。
寛永16年(1639)、本多政勝が、播磨姫路より、入封する。
延宝7年(1679)、松平(藤井)信之が、播磨明石より、入封する。
貞享2年(1685)、本多忠平が、下野宇都宮より、入封する。
享保9年(1724)、柳沢吉保の子の柳沢吉里が、甲斐府中より、入封する。以後、柳沢氏が明治維新まで在封する。
歴 代 城 主 筒井氏、羽柴氏、増田氏、水野氏1代(6万石)、松平(奥平)氏1代(12万石)、本多氏3代(15万石→12万石→6万石)、松平(藤井)氏1代(8万石)、本多氏5代(11万石→5万石)、柳沢氏(15万石)


堀と本丸高石垣

現在、二の丸跡には郡山高校が建ち、三の丸跡には市役所と郡山中学が建つ。
追手門、隅櫓が木造で再建して復興されている。
天守台


郡山丘陵の南端を利用して築かれた、広大な敷地を持つ城郭である。
羽柴秀長時代の石垣には、多くの石仏、供養石塔が含まれている。大和に根強い宗教的権威を否定する意図があったともいわれている。
また秀長時代、本丸五層五階の天守が上がっていたといわれるが、詳細は不明。


隅櫓多聞櫓(いずれも復興) 右から大手門多聞櫓隅櫓(いずれも復興)

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