宇都宮城

 所 在 地   栃木県宇都宮市本丸町  別 名   亀ケ岡城
 遺 構   土塁 堀 復元櫓  形 式   平城
 築 城 者   藤原宗円  築 城 年   平安末期
歴 史 宇都宮城は、平安時代末期、前九年の役の戦功で下野守護職になった藤原宗円により築城されたのが始まり、とされる。宗円は宇都宮氏を名乗り、以後、宇都宮氏の居城となった。
戦国時代に入り、宇都宮氏は後北条氏と対立する。天正18年(1590)の小田原城攻めの際には、宇都宮国綱は豊臣秀吉に従い、所領を安堵された。
慶長2年(1597)、宇都宮氏は突如改易され(理由は諸説あり不明)、宇都宮城は浅野長政に与えられる。次いで慶長3年(1598)、蒲生秀行が18万石で、次いで大河内秀綱が城主となった。
慶長6年(1601)、蒲生秀行は関ヶ原の役の功により61万石に加増されて会津に移封され、代わって奥平家昌が入封する。以後、譜代大名が頻繁に入れ替わる。
まず、元和5年(1619)に、本多正純が下野小山より入封し、城を改築するが、「宇都宮釣天井事件」(伝説に過ぎない)により、改易される。
次いで元和8年(1622)、奥平忠昌が下総古河より入封する。寛文8年(1668)、松平(奥平)忠弘が出羽山形より入封する。天和元年(1681)、本多忠平が陸奥白河より入封する。貞享2年(1685)、奥平昌章が出羽山形より入封する。元禄10年(1697)、阿部正邦が丹後宮津より入封する。宝永7年(1710)、戸田忠真が越後高田より入封する。寛延2年(1749)、松平(深溝)忠祇が肥前島原より入封する。
そして安永3年(1774)に、戸田忠寛が肥前島原より入封し、以後、戸田氏が7代続き、明治維新を迎える。
明治元年(1986)、戊辰戦争に際し、幕府脱走軍の攻撃を受け、宇都宮城は落城した。このとき、城内、城外ともに焼失した。
歴 代 城 主 宇都宮氏22代、浅野氏1代、蒲生氏1代、大河内氏1代、奥平氏2代(10万石)、本多氏1代(15.5万石)、奥平氏2代(12万石)、松平氏1代(15万石)、本多氏1代(10万石)、奥平氏2代(9万石)、阿部氏1代(10万石)、戸田氏3代(6.7万石)、松平氏2代(6.5万石)、戸田氏7代(7.7万石)


       復元された清明台櫓と、土塁と、堀
発掘調査で、堀は幅が最大で幅27m、深さが最大で7mあったことが確認されている。


宇都宮城は、本多正純によって大きく改修されたものであり、本丸を二の丸で囲み、その北、西、南に曲輪が連なり、さらにその外側を曲輪が囲む、輪郭式と梯郭式を併用した縄張りであった。戊辰戦争に際して、大鳥圭介や土方歳三に率いられた幕府脱走軍に占領され、数日後には新政府軍に奪い返されるという争奪戦の場となり、城は炎上して破壊された。
現在、城の遺構は残っていないが、本丸の一部が宇都宮城址公園として整備されている。その西側に面して、水堀と土塁が復元され、土塁上に、清明台櫓と富士見櫓、及びこれらを繋ぐ土塀が復元されている。


         復元された富士見櫓
土塁の高さと傾斜角度からして、石垣に劣らず防御性が高い。
本丸内の広場
右端の櫓は清明台櫓


輪郭式梯郭式を併用した縄張りの曲輪を、四重の堀で囲む。

本多正純が整備した、関東屈指の名城といわれる。


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