弘前城
所 在 地 | 青森県弘前市下白銀町 | 別 名 | 高岡城、鷹岡城 |
遺 構 | 天守・門・櫓・堀 | 形 式 | 平山城 |
築 城 者 | 軽信枚(つがるのぶひら) | 築 城 年 | 慶長16年(1611) |
歴 史 | 津軽の地は、もともと南部氏の支配地であったが、南部氏の配下の大浦為信は、元亀2年(1571)に反旗を翻し、津軽地方を掌握した。 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原北条攻めが始まると、大浦為信は上洛し、さらに駿河沼津で秀吉に謁見して、津軽安堵の朱印状を安堵された。これより、「大浦」姓から「津軽」姓に改めた。このとき、所領は4.5万石。 慶長5年(1600)に関ヶ原の役が起こると、津軽為信は徳川方に味方し、家康から旧領を安堵され、2千石を加増された。 慶長14年(1609)、 津軽為信を継いだ2代信枚が、幕府から築城許可を得て、翌年から高岡に築城を開始し、慶長16年(1611)に高岡城が、完成した。 寛永4年(1627)、五重天守が、落雷で焼失した。以後、天守は再建されなかった。 寛永5年(1628)、高岡城から弘前城に改称する。 文化7年(1810)、辰巳櫓を改築し、これを天守代用の御三階とする。 |
歴 代 城 主 | 津軽氏12代歴代(4万7千石) |
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天 守 (現存12天守の一つ 重文) (構造) 層塔型 (重・階) 三重三階 (形式) 独立式 (高さ) 約14.4m 寛永4年に焼失した五層天守にかわり、文化7年に辰巳櫓を改築して、天守代用の御三階としたもの。 外壁は白漆喰塗籠、瓦は銅板を張った銅瓦 写真のように本丸側の二面には破風が設けられていないが、外側の東・南の二面には破風が設けられている。 |
本丸から二ノ丸、三ノ丸を順に規模を広げて張り出す梯郭式縄張りであり、本丸を石垣造とする他は、各曲輪は土塁で築かれている。 天守の他、各三重の未申櫓、辰巳櫓、丑寅櫓の3つの隅櫓、追手門、東門、北門、南内門、東内門の5つの門が現存し、城地が堀も含めて残されている。姫路城,、彦根城に次いで保存状態が良好であるといわれる。 城地は、南北600m、東西300m以上の広大なものである。動員兵力を1万石あたり250人とすると、5万石に満たない弘前藩の全兵力は千人を少し越える程度であると考えられるので、異例の規模の居城といえる。 城址には5千本の桜が植えられ、桜の名所として全国的にも有名。 |
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北 門(亀甲門) |