小田原城

 所 在 地   神奈川県小田原市城内  別 名   小早川城 小峰城
 遺 構   堀、石垣、曲輪、再建天守、再建櫓  形 式   平山城
 築 城 者   小早川氏  築 城 年   平安末期
 歴 史  平安末期から鎌倉前期にかけて、小田原の地は小早川氏(安芸小早川氏の祖)が支配し、小田原城はこの頃、築城されたとされる。
室町期に入り、駿河の大森氏が相模に侵入し、小早川氏を追って、小田原に入った。大森氏は5代約40年間、小田原城主として君臨する。
明応4年(1495)、伊豆韮山の伊勢新九郎(後の北条早雲)が大森氏を滅ぼし、小田原城に進出する。
後北条氏の小田原城の中心部は、現在の地よりも西の小峰丘陵にあったとされる。以後、後北条氏5代の96年間、関東攻略の拠点として、小田原城は拡張を重ね、天下第一の大城郭となる。
永禄4年(1561)に上杉謙信が、永禄12年(1569)に武田信玄が、小田原城を攻めるが、いずれも退ける。
天正18年(1590)の豊臣秀吉小田原攻めに対して、9kmに及ぶ総構を構築して迎え撃つ。20万の大軍が城域に踏み込むことを許さなかったが、3カ月に及ぶ籠城戦となり、内応者が出るなど、戦意をなくし、開城する。ここに後北条氏は滅びる。
天正18年(1590)、小田原攻めのあと、徳川家康は関八州に国替えとなり、小田原城に大久保忠世を入れた。
慶長19年(1614)、大久保忠隣は大久保長安の事件に連座して改易され、廃藩となる。小田原城には城番が置かれた
元和5年(1619)、阿部正次が上総大喜多より入封し、小田原藩が再建される。元和9年(1619)、阿部正次は武蔵岩槻に移封され、再び廃藩となる。
寛永9年(1632)、稲葉正次が下野真岡より入封し、小田原藩が再度再建される。
貞享3年(1686) 大久保忠朝、下総佐倉より入封する。以後、明治維新まで、大久保氏が在封する。
歴 代 城 主 小早川氏、大森氏、後北条氏5代、大久保氏2代(4.5万石)、阿部氏(5万石)、稲葉氏3代(8.5万石→11.7万石→10.2万石)、大久保氏10代(9.3万石→10.3万石)

昭和35年に、外観復元で再建。鉄筋コンクリート造。

 層塔型天守
 三層四階
 高さ38.7m

内部は、ご多聞に洩れず、資料館と展望台になっている。

後北条氏の小田原城は、規模が壮大、堅固に過ぎるので、徳川氏により破壊され、現在の小田原城へと縮小された。
天守は、北条氏時代の二重のものが寛永10年(1633)に地震で倒壊し、延宝年間に三重で再建された。次に元禄16年(1703)に地震の火災で炎上し、宝永3年(1706)に再々建された。さらに天明2年(1782)に地震で傾き、鯱巻機で引き起こす、…と変遷をたどるが、明治3年(1870)に取り壊された。
城跡は、本丸、二の丸、馬出曲輪が城址公園となっており、堀は二の丸の東側と南側が残されている。

二の丸東堀と二の丸隅櫓
隅櫓は昭和9年に外観復元された平櫓
二の丸の表門(平成2年に復元)
埋門と奥の櫓門の間に枡形が形成されている
二の丸表門の枡形内
櫓門は銅(あかがね)門となっている
本丸の表門の常盤木門
昭和45年に復元された木造の櫓門


現地案内板の絵図

左下の馬出曲輪を復元する工事が進んでいる。


                       小峰御鐘ノ台大堀切東堀
後北条氏は、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて、城と城下町を取り囲む惣構を築いた。小峰御鐘ノ台大堀切は、この惣構の三の丸の外郭にあたり、東堀、中堀、西堀の三本の空堀からなる。東堀は幅が20〜30m、土塁の高さが12mあり、全国的にも最大規模である。


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