岩槻城

 所 在 地   埼玉県さいたま市岩槻区太田  別 名   浮城
 遺 構   城門、土塁、空堀  形 式   平城
 築 城 者   太田道真・道灌  築 城 年   長禄元年(1457)
 歴 史  長禄元年(1457)、関東管領・扇谷上杉持朝が、重臣の太田道真・道灌父子に、江戸城川越城とともに、武蔵での拠点の一つとして、岩槻城を築城させた。(扇谷上杉氏と対抗する古河公方足利氏に属する城主・成田顕泰の父成田正等が文明10年(1478)に築城したともいわれる)
大永5年(1525)、相模・小田原の後北条氏により攻められ、城主太田資頼の家臣による反逆により落城した。享禄4年(1531)、太田資頼が岩槻城を奪還した。天文6年(1537)に川越城が後北条氏により落城したあと、孤立しながらも岩槻城は太田氏の居城として機能した。
永禄7年(1564)、城主太田資正の留守中に、嫡子・氏資が北条氏康に内応し、資正を追放して岩槻城は後北条氏に落ちた。太田氏資は永禄10年(1567)に戦死した、岩槻城は後北条氏の直轄になった。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原合戦に際して、浅野長吉に攻められ、岩槻城は落城した。
天正18年(1590)、徳川家康は関東討入りに際し、高力清長を岩槻城に入れた。以後、譜代大名が頻繁に入れ替わる。
元和6年(1620)、青山忠俊が入封する。元和9年(1623)、阿部正次が相模小田原より入封する。天和元年(1681)、板倉重種が下野烏山より、入封する。天和2年(1682)、戸田忠昌が入封する。貞享3年(1686)、松平忠周が丹波亀山より入封する。元禄10年(1697)、小笠原長重が三河吉田より入封する。正徳元年(1711)、永井直敬が信濃飯田より、入封する。
宝暦4年(1754)、大岡忠光が上総勝浦より入封する。以後、大岡氏が明治維新まで在封する。
歴 代 城 主 太田氏、北条氏、高力氏2代(2万石)、青山氏1代(4.5万石)、阿部氏5代(5.5万石)、板倉氏1代(5万石)、戸田氏1代(5.1万石)、松平(藤井)氏1代(4.8万石)、小笠原氏2代(5万石→6万石)、永井氏3代(3.2万石)、大岡氏(2万石)


新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀と土塁 新曲輪の南側の空堀と土塁
新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀には、発掘の結果、堀障子があったことが確認されている。堀障子の高さが90cm、下の幅が150cm、上の幅が90cmで、間隔は9m。堀障子は、後北条氏の築城に多くみられるので、この堀は後北条氏の時代に造られたと考えられている。


木材部分が黒く塗られているので「黒門」と呼ばれているが、岩槻城内での元の位置はわかっていない。長屋門式であり、屋根は入母屋造・瓦葺。 岩槻城の裏門と伝えれらるが、岩槻城内での元の位置はわかっていない。本柱と後の控柱の間の位置で屋根を支える薬医門形式であり、屋根は切妻屋根。


岩槻城は浮城と呼ばれるように、元荒川の蛇行部の内側に形成された大きな沼の中の島を、曲輪としたものである。
岩槻城は川越城と同様に、江戸の北方を守る要衝であるため、譜代の幕閣が頻繁に入れ替わり、大岡氏になってようやく落ち着いた。大岡忠光は大岡忠相の同族であり、9代将軍・家重に御側衆として仕え、言葉が不自由な家重の命令を幕閣に伝えた。家重の寵愛を受けて、諸侯に列せられたが、謙虚な性格で驕ることもなかったため、家重死去後も失脚するようなことはなかった。
現在、元荒川や沼は埋められ、新曲輪、鍛冶曲輪の地が岩槻城址公園として残っている他は、主郭を含め他の曲輪は住宅地などになっており、かつての城域はよく分かっていない。また移築されていた2つの城門が岩槻城址公園内に再移築されている。


現地案内板より

本丸・二の丸・三の丸・竹沢曲輪など、沼上に浮かぶ曲輪群と、その北岸の新正寺曲輪と、南岸の新曲輪及び鍛冶曲輪との3つのブロックの曲輪からなる。
これらを北西から北東にかけて元荒川で囲み、また西から南にかけて巨大な土塁と堀からなる大構で囲む、惣構えになっていた。


日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む