忍 城

 所 在 地   埼玉県行田市本丸  別 名   忍の浮城、亀城
 遺 構   土塁、摸擬櫓  形 式   平城
 築 城 者   成田顕泰  築 城 年   文明10年(1478)
 歴 史  忍城は、文明10年(1478)に成田顕泰により築城された。(子の親泰により延徳3年(1491)に完成したともいわれる)
天文22年(1553)に、天文15年(1546)の川越夜戦以降、勢力を関東に延ばす小田原の北条氏康に攻められるが、撃退した。しかしその後、成田氏は上杉謙信に属した後に、後北条氏に属することになる。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、忍城は石田三成により水攻めにされるが、持ち堪えた。小田原の本城が落城した後に、開城する。 
徳川家康の関東入国後、松平家忠が入封した。
文禄元年(1592)、家康の四男、松平忠吉が入封する。慶長5年(1600)、忠吉は尾張清洲へ移り、忍城は番城となった。
寛永3年(1626)、酒井忠勝が武蔵深谷より入封する。寛永4年(1627)、酒井忠勝は武蔵川越藩を継いだため、廃藩となる。
寛永12年(1635)、松平(大河内)信綱が入封する。
寛永16年(1639)、阿部忠秋が下野壬生より入封する。元禄14年(1701)、城を大改築し、三階櫓、二階櫓などを造営する。
文政6年(1823)、松平(奥平)忠堯が伊勢桑名より入封する。以後、明治維新まで奥平松平氏が在封する。
歴 代 城 主 成田氏、松平氏1代(1万石)、松平氏1代(10万石)、酒井氏1代(5万石)、松平(大河内)氏1代(3万石)、阿部氏9代(3万石→10万石)、松平(奥平)氏(10万石)


摸擬として建造された三重櫓と城門。三重櫓は郷土博物館として利用されており、元の三重櫓とは異なる位置に再建されたが、それなりの風格が感じられる。


忍城は、沼地と点在する島を城地として利用するものであり、浮城と称される。本丸の南に二の丸、三の丸を配置し、本丸の北に諏訪曲輪、西に土蔵曲輪、三の丸の南に勘定所曲輪、の南に沼橋曲輪が配置されていた。
本丸には天守や櫓、御殿はなかったが、現在、本丸跡に摸擬の三階櫓、城門、塀が建てられている。また外堀となる沼が、水城公園として整備されている。


数少ない遺構の鐘楼 外堀の沼は、広大な水城公園となっている。


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