川越城


 所 在 地   埼玉県川越市郭町  別 名   初雁城
 遺 構   本丸御殿・櫓台・土塁・堀  形 式   平山城
 築 城 者   太田道真・道灌  築 城 年   長禄元年(1457)
 歴 史  15世紀半ば、北関東では古河公方・足利成氏と、関東管領・扇谷上杉持朝が対立しており、扇谷上杉氏が重臣の太田道真・道灌父子に、江戸城岩槻城とともに、武蔵での拠点の一つとして、長禄元年(1457)に川越城を築城させた。
16世紀に入り、関東は、古河公方足利氏と、山内上杉氏と、扇谷上杉氏の三勢力がせめぎ合っていたが、小田原の後北条氏が進出し、川越城は天文6年(1537)に後北条氏により攻略された。天文15年(1546)、古河公方と扇谷・山内上杉氏は連合して、大軍で川越城を攻め、奪還を図った。これに対して川越城の守将・北条綱成と援軍の北条氏康は、連合軍に夜襲をかけ、大敗させた。これが名高い「川越夜戦」であり、以後、後北条氏は川越城を拠点にして関東での覇権を確保した。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原合戦に際して、川越城は前田利家に攻められ、落城した。
天正18年(1590)、徳川家康は関東討入りに際し、酒井重忠を川越城に入れた。
以後、川越城は、譜代大名が短期間で交代する。慶長6年(1601)、重忠の弟、酒井忠利が駿河・田中より入封する。寛永11年(1634)、堀田正盛が入封する。
寛永15年(1638)、大火で、城下の大半を焼失した。
寛永16年(1639)、松平信綱が武蔵・より入封する。このとき城の大増築を行なった。元禄7年(1694)、柳沢吉保が入封する。宝永元年(1704)、秋元喬知が甲斐谷村より入封する。明和4年(1767)、松平朝矩が上野厩橋より入封する。松平朝矩は結城秀康の系統であり、7代続くが、慶応2年(1866)に松平直克が上野厩橋に戻り、慶応3年(1867)に松平(松井)康英が、陸奥棚倉より入封する。
歴 代 城 主 太田氏、扇谷上杉氏、後北条氏、酒井氏1代(1万石)、酒井氏2代(2→8万石)、堀田氏1代(3万石)、松平(大河内)氏3代(6万石)、柳沢氏1代(7.2万石)、秋元氏4代(5万石)、松平氏7代(15万石)、松平(松井)氏2代(8万石)


本丸御殿

嘉永元年(1848)に松平斉典により造営されたものであり、当初は16棟からなっていた。
現在、玄関・大広間と、移築復元された家老詰所を残すのみ。

御殿建築が残っているのは少なく、本丸御殿では川越城と高知城だけ。


太田道灌が築いた川越城の規模は、江戸時代の城郭規模のうち、本丸と二の丸を合わせた程度のものと推定されている。
川越城は、江戸の北を守る重要拠点として、幕府の要職にある譜代、御家門の大名が入れ替わり封じられた。なかでも、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が入城した際に、川越城は拡張・整備され、さらに正保年間(1644-48)にも拡張され、本丸、二の丸、三の丸など八郭、三櫓、十二門(四櫓、十三門ともいう)の規模となった。
現在、城域は、本丸及びその周辺が初雁公園として残されている、その他は、公共施設や市街地となっており、遺構は少ない。


本丸御殿内の廊下 本丸御殿の中庭


         富士見櫓跡
川越城に天守はなく、富士見櫓、菱櫓、虎櫓があった。富士見櫓は本丸南西の最も高いところに三重三階で建てられており、天守代用の御三階になっていたと思われる。
      慶応三年の城見取り図
本丸、二の丸、三の丸、八幡曲輪、西側の大きな二つの外曲輪、北東の帯状の新曲輪、南東の帯状の田曲輪からなる。西の大手門と南の南門にはそれぞれ丸馬出が設けられている。

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む