江戸城
所 在 地 | 東京都千代田区 | 別 名 | 千代田城 |
遺 構 | 櫓・濠・石垣・土塁・天守台 | 形 式 | 平城 |
築 城 者 | 徳川家康〜家光 | 築 城 年 | 天正18年(1590)〜寛永13年(1636) |
歴 史 | 平安末期〜鎌倉時代に江戸氏が居館を築いたのが始まりとされる。 室町後期に入り、扇谷上杉氏の重臣である大田道灌が、長禄元年(1457)に江戸城を築城して本拠地とした。道灌が文明18年(1486)に謀殺されたあと、明応2年(1493)に至って上杉朝良が城主となった。 大永4年(1524)、北条氏綱に攻められ、落城する。以後、後北条氏の関東経営の拠点の一つとなった。 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原北条攻めにあたって、江戸城は真田孝次に攻められて落城する。 |
天正18年(1590)、徳川家康は、豊臣秀吉の命により関東に領地替えとなり、江戸城を本拠として入封する。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603)に徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。そして全国の大名に命じた天下普請で江戸城の大々的な築城・拡張を開始する。寛永13年(1636)、三代、家光のとき、惣構えも含め、江戸城が完成した。 明暦3年(1657)、 明暦の大火(振袖火事)で、本丸・二の丸・三の丸などが焼失した。このとき天守も炎上し、以後、天守は再建されなかった。 文久3年(1863)、 本丸・二の丸・西の丸を焼失した。本丸御殿は再建されなかった。 明治元年(1868)、江戸城は無血開城し、新政府軍が進駐して東京城と改められた。明治2年(1869)、 明治天皇が行幸し、西の丸を皇居とした。 |
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歴 代 城 主 | 大田道灌、足利氏、後北条氏、徳川将軍家15代、天皇家4代 |
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手前 奥 三の丸・巽櫓(桜田二重櫓) 三の丸・桔梗門 |
三の丸・桔梗門 高麗門と櫓門とその間の枡形からなる |
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北桔橋門 濠は平川濠 | 平川濠の本丸石垣 横矢掛りがジグザグに張り出した「雁行」として形成されている |
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切込ハギ(布積み)の巨石で築かれた壮大な天守台 慶長12年(1607)に徳川家康によって五層天守が本丸中央に築かれ、元和8年(1622)に二代・秀忠によって本丸北側に五層天守が築き直された。 現存の天守台は、寛永15年(1638)に三代・家光によって築かれたものであり、高さが23mある。この上に初層18間×16間(37.8×33.6m)、高さ200尺(60.6m)の五層天守が上げられた。我が国史上最大の天守である。 この天守は明暦3年(1657)の明暦大火(振袖火事)により、焼失し、以後再建されることはなかった。 |
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半蔵濠の土塁と半蔵門 土塁の上と下に石垣が築かれた、 鉢巻腰巻石垣となっている |
江戸城は、本丸、二の丸、三の丸を中核とし、外曲輪として西の丸、北の丸、吹上御庭を擁する、近世城郭として最大規模のものである。 天守は、慶長12年(1607)に家康が本丸中央部に五層天守として築いたが、元和8年(1622)に秀忠によって本丸北側に移して新たに造営された。そして、家光によって、現存する天守台の上に天守が築かれた。この天守は、初層が18間×16間(38×34m)、高さ200尺(60m)であり、石垣を含めると80m以上の高さを有する、史上最大規模のものであった。しかし明暦3年のいわゆ振袖火事の際に炎上し、天守は以後、再建されることはなかった。 現存する建築遺構は、本丸の富士見櫓と多聞櫓、北桔橋門、二の丸の百人番所、大手門番所、三の丸の大手門など。また天守台、石垣、土塁、堀の残存状態は非常に良好である。 |