亀山城

 所 在 地   京都府亀岡市荒塚町  別 名   亀宝城 亀岡城 
 遺 構   堀、石垣  形 式   平城
 築 城 者   明智光秀  築 城 年   天正7年(1585)
 歴  史  正7年(1579)、織田信長の命を受けて天正3年から5年をかけて、明智光秀は丹波を平定し、亀山に丹波統治拠点の城を築いた。
天正10年(1582)、本能寺の変に際して、光秀は亀山城から出陣した。明智光秀亡き後は、羽柴秀勝、小早川秀秋らが領した。
天正13年(1585)、前田玄以が5万石で城主となる。慶長13年(1602)、前田玄以の次男の茂勝は、乱心・不行跡により改易される。
以後、城主が頻繁に交代する。慶長14年(1603)、岡部長盛が入封する。元和7年(1621)、松平(大給)成重が、三河西尾より入封する。寛永11年(1634)、菅沼定芳が、近江膳所より入封する。慶安元年(1648)、松平(藤井)忠晴が、遠江掛川より入封する。貞享3年(1686)、久世重之が、備中庭瀬より、入封する。元禄10年(1697)、井上正芩が美濃八幡より入封する。元禄15年(1702)、青山忠重が、遠江浜松より入封する。
寛延元年(1748)、松平(形原)信芩が、丹波篠山より入封する。以後、形原松平氏が明治維新まで在封する。
明治2年(1869)、亀山藩から亀岡藩へ改名する。
歴 代 城 主 明智光秀、羽柴秀勝、小早川秀秋、前田氏2代(5万石)、岡部氏1代(3.2万石)、松平(大給)氏2代(2.2万石)、菅沼氏2代(4.1万石)、松平(藤井)氏3代3.8万石、久世氏1代(5万石)、井上氏1代(4.7万石)、青山氏3代(5万石)、松平(形原)氏累代(5万石)


内堀


現在、城址は、内掘に囲まれた大本教の本部内にある。
城址に入るには、神殿でお祓いを受ける必要がある




再構築された石垣


本丸跡に立派な石垣があるが、これは大本教が荒れた城址を買い取った跡に、城の石材を利用して昭和初期に構築されたものである。


亀山城は、慶長14年(1603)、大坂城包囲網の一つとして、藤堂高虎を中心とした天下普請で大改修された。
慶長15年(1604)、五重天守が建てられたが、わが国最初の層塔型天守であり、破風が全くない外観であった。最上階には廻縁、高欄、軒唐破風を設けて、単調な外観を補っていた。
城域は、本丸を囲むように内堀、外堀、惣構堀が同心状に形成されていた。明治初期に撮影された写真によると、高石垣で囲まれた壮大な城であった。

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