浜松城

 所 在 地   静岡県浜松市中区元城町  別 名   曳馬城
 遺 構   曲輪石垣、空堀、摸擬天守  形 式   平山城
 築 城 者   徳川家康  築 城 年   元亀元年(1570)
 歴 史  浜松城の前身の曳馬(引馬)城は、駿河守護・今川氏の持ち城であったが、桶狭間で今川義元が敗北すると、曳馬城は徳川家康の属城となる。
元亀元年(1570)、徳川家康は、岡崎城を嫡男・信康に譲り、曳馬城の地に新たに浜松城を築城し、領国支配の拠点にする。
天正18年(1590)、徳川家康は関東に移封され、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が城主となる。
慶長5年(1600)、堀尾氏は出雲松江へ移封され、翌慶長6年(1601)、 松平(桜井)忠頼が武蔵松山より入封する。慶長14年(1609)に、松平忠頼は口論すえ刺殺され、改易となる。駿河府中藩の附家老・水野重央が入封する。以後、譜代大名が入れ替わる。
元和5年(1619)、高力忠房が武蔵岩槻より入封する。寛永15年(1638)、松平(大給)乗寿が美濃岩村より入封する。正保元年(1644)、太田資宗が三河西尾より入封する。延宝6年(1678)、青山宗俊が入封する。元禄15年(1702)、松平(本庄)資俊が常陸笠間より入封する。享保14年(1729)、松平(大河内)信祝が三河吉田より入封する。寛延2年(1749)、松平(本庄)資訓が三河吉田より入封する。宝暦8年(1758)、井上正経が入封する。文化14年(1817)、水野忠邦が肥前唐津より入封する。弘化2年(1745)、井上正春が上野館林より入封する。
明治元年(1868)、徳川家達が、幕府崩壊後の徳川宗家を相続し、駿府府中藩を立藩するにあたって、浜松藩は廃藩となる。
歴 代 城 主 徳川家康、堀尾氏2代、松平(桜井)氏1代(5万石)、水野氏1代(2.5万石)、高力氏(3.1万石)、松平(大給)氏(3.5万石)、太田氏2代(3.5万石)、青山氏3代(5万石)、松平(本庄)氏2代(7万石)、松平(大河内)2代(7万石)、松平(本庄)2代(7万石)、井上氏3代(6万石)、水野氏2代(6万石)、井上氏3代(6万石)


天守曲輪の天守台と、天守。堀尾吉晴築造の天守が存在していたが、江戸初期には失われていたらしい。現在のは、昭和33年にコンクリート造で復興された摸擬天守。 天守台は、天守が造営されたものが当時のまま残る。石垣の多くは、堀尾吉晴の時代のものといわれ、徳川家康築城の浜松城は、堀尾吉晴によって大幅に改修されたものである。


天守曲輪への虎口の天守門の跡。明治維新後に、建物は取り壊され、堀は埋められたが、天守台、天守曲輪、本丸の一部に石垣が残されている。 天守曲輪正面の石垣は、徳川家康の時代のものといわれる。浜松近辺の珪岩からなる自然石を積み上げた野面積であり、荒々しさが豪快である。


浜松城は、今川氏を滅ぼして三河、遠江を領した徳川家康が、関東に移封されるまで16年間、領国支配の拠点にした城である。この間、三方原の合戦での武田信玄軍に対する大敗があるが、徳川家康は天下人になる礎をこの城で築いたといえるので、出世城ともいわれる。江戸時代に入ると、譜代大名が入れ替わり城主となり、その多くは老中など幕閣に登用され、「出世城」として意識された。特に水野忠邦は、富裕な唐津から実禄が大幅に下がる浜松に自ら希望して転封し、後に老中に就任して天保の改革を主導する。


現地案内板の地図


中世の曳馬城を北東の端に取り込んで、東西450m、南北500mの広大な規模になっている。
比高25mの最高所に天守曲輪を配し、そこから東へ本丸、二の丸が階段状に並ぶ連廓式である。しかし、天守曲輪の西方に作左曲輪、本丸の南に清水曲輪、など多くの曲輪を取り付けて、複雑な縄張りになっている。

城跡は現在、浜松城公園となっている。遺構は多くないが、石垣は一見の価値、大いに有る。


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