岩村城

 所 在 地   岐阜県恵那市岩村町  別 名   霧ケ城
 遺 構   石垣、曲輪、復元櫓  形 式   山城(標高721m、比高150m)
 築 城 者   加藤景廉  築 城 年   文治元年(1185)
 歴 史  城の創建は古く、源頼朝の家臣、加藤景廉が文治元年(1185)が遠山荘の地頭に補されたのに始まる。景廉の長男の景朝が遠山荘に赴任し、遠山氏を名乗り、以後、戦国時代まで居城とした。
戦国時代に入り、織田と武田の争奪の地となり、織田信長の叔母が夫・遠山景任没後に、信長の子を養子に迎えて幼主として擁し、事実上の女城主として武田の攻撃に奮戦した。元亀3年(1571)、武田信玄は上洛のために秋山信友に岩村城を攻略させる。信長の叔母は、幼主に家督を継がせることを条件に、秋山信友の妻となって、開城し、武田方となった。
天正3年(1575)の長篠の戦いのあと、織田信長は岩村城を奪取する。このとき、信長は叔母を磔刑に処したという。
以後、城主は河尻秀隆、森蘭丸、森長可、森忠政、田丸直昌と変わる。
田丸直昌は関ヶ原の戦いで西軍に属して没落し、慶長6年(1801)、松平(大給)家乗が入封して城主となる。
松平氏のあと、寛永15年(1638)、丹羽氏信が入封し、5代続くが、氏音のとき、藩内で派閥争いが起こり、越後高柳に移封になる。
元禄15年(1702)、上記の大給松平の分家の、松平(大給)乗紀が信濃小諸から入封する。以後、大給松平氏が明治維新まで在封する。
歴 代 城 主 遠山氏、河尻氏、森氏、田丸氏(4万石)、大給松平氏2代(2万石)、丹羽氏5代(2万石)、大給松平氏7代(2万石)


本丸北東面の石垣 通称六段壁


岩村城は、森氏の時代に、現存の形に整えられたものであり、近世城郭として最も高所である標高721mの山城である。大和の高取城、備中の松山城と、日本三大山城に数えられる。
城域は、本丸や二の丸などの曲輪群がある山頂部の本城と、藩主邸のある山麓の居館部からなり、両者を約300メートルの藤坂が繋いでいる。本城の入り口である一の門のあたりから石垣で覆われており、石垣の総延長は1.7kmに及ぶ圧倒的なものである。岩村城の最大の見ものは、この累々とした石垣であり、2万石程度の石高でこのような規模の石垣を明治維新まで保持し得たことに驚かされる。
本城は、最高所の本丸を中心に、二の丸、出丸、東曲輪、帯曲輪、八幡曲輪からなる。本丸には二重櫓が二基建てられたが、天守はあげられず、大手門の三重櫓が代用とされた。


     再建された太鼓櫓と長屋門
慶長6年、山麓に藩主邸が造営され、城下に時を知らせる太鼓櫓が建造された。
           藤坂
山麓の藩主邸と、山頂部の本城との間をつなぐ。本城の一の門まで続く。


         一の門の跡
藤坂と土岐坂を仕切る門であり、ここからが岩村城の本城である。
土岐坂の石垣


土岐門の跡           大手門跡
大手門は前の平重門と後の櫓門からなる枡形に形成されており、三重櫓が建てられていた。


          雲ケ井
城主専用の井戸で、堂で覆われていた。敵が攻めてきたときに、秘蔵の蛇骨を雲ケ井に沈めると、霧が湧いて城を覆ったという伝説があり、岩村城は、別名・霧ケ城という。
         菱櫓の石垣
山の地形に合わせて石を積んだ結果、菱形になった。


本丸の北東面の石垣。中央が虎口。 本丸の大手の虎口の枡形


本丸の搦手の虎口。埋め門になっている。 本丸の出丸に面した、西面の石垣


<アクセス>
国道257号線、明知鉄道の線路を東に越えて1km弱、標識に従って岩村歴史資料館へ行く。この資料館の駐車場を利用することができる。この資料館の前に太鼓櫓があり、藤坂を登って城址を目指す。山頂部の出丸まで車で行くこともできる。(2009.06.03)

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