掛川城

 所 在 地   静岡県掛川市掛川  別 名   雲霧城
 遺 構   御殿、櫓、曲輪石垣、堀、再建天守  形 式   平山城
 築 城 者   朝比奈泰熈(あさひなやすひろ)  築 城 年   文明年間(1469-86)
 歴 史  掛川城は、駿河守護・今川義忠が、遠江支配の拠点として、重臣の朝比奈泰熈に築城させたのがはじまりとされる。
永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で敗死すると、今川氏は急速に衰え、子の氏真は武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠もった。徳川家康は掛川城を攻めて、永禄12年(1569)、和睦のうえ開城させる。
永禄11年(1568)、徳川家康は、掛川城に石川家成を入れ、武田氏への防御拠点とする。
天正18年(1590)、小田原合戦の後、徳川家康は関東に移封になり、豊臣秀吉配下の山内一豊を掛川城主とした。このとき、城を改築し、天守を造営する。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の後、山内氏は土佐へ移封され、翌年、松平(久松)定勝が下総小南より入封する。以後、譜代大名が頻繁に交代する。
元和3年(1616)、徳川頼宣の付家老・安藤直次が入封する。元和5年(1618)、松平(久松)定綱が常陸下妻より入封する。寛永2年(1625)、徳川忠長の付家老・朝倉宣正が入封する。寛永10年(1633)、青山幸成が入封する。寛永12年(1635)、松平(桜井)忠重が駿河田中より入封する。寛永16年(1639)、本多忠義が入封する。正保元年(1644)、松平(藤井)忠晴が駿河田中より入封する。慶安元年(1648)、北条氏重が駿河田中より入封する。万治2年(1659)、井伊直好が三河西尾より入封する。宝永3年(1706)、松平(桜井)忠喬が信濃飯山より入封する。正徳3年(1713)、小笠原長熙が武蔵岩槻より入封する。延享3年(1746)、太田資俊が上野館林より入封する。
明治元年(1868)に徳川家達が、幕府崩壊後の徳川宗家を相続し、駿府府中藩を立藩するにあたって、掛川藩は廃藩となる。
歴 代 城 主 朝比奈氏、石川氏、山内氏(6万石)、松平(久松)氏2代(3万石)、安藤氏1代(2.8万石)、松平(久松)氏1代3万石、朝倉氏1代(2.6万石)、青山氏1代(2.6万石)、松平(桜井)氏1代(4万石)、本多氏1代(7万石)、松平(藤井)1代(3万石)、北条氏1代(3万石)、井伊氏3代(3.5万石)、松平(桜井)氏1代(4万石)、小笠原氏3代(6万石)、太田氏7代(5万石)


整備された本丸  左:太鼓櫓  右:天守


掛川城は、標高40mの龍頭山に築かれた平山城であり、城域は東西1400m、南北600m。最高所の天守丸を中心にして、南側に本丸、東側に二の丸と三の丸が配されていた。天守丸には山内氏時代に天守が築かれたが、慶長9年(1604)の地震で倒壊し、再建された天守も安政元年(1854)の大地震で被害を受けて取り壊された。



     二の丸御殿(重要文化財)

御殿は当初、本丸に営まれたが、老朽化や災害のため二の丸に再建された。しかしそれも安政元年(1854)の倒壊大地震で倒壊した。現存するものは、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建されたもの。
御殿で現存するものは、他に二条城川越城など少なく、貴重である。
車寄玄関 御書院上の間(奥)と、次の間(手前)


  平成6年に木造により再建された天守。
高知城の現存天守は、山内一豊が掛川城に築いた天守を模したものといわれる。このため、掛川城天守を再建するにあたって、高知城天守を模して設計された。ああややこしい。
             太鼓櫓
かつては、三の丸にあった三階櫓であり、櫓内の太鼓により、時を告げていた。昭和29年に荒和布櫓があった位置に、二階櫓として移築された。


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