二条城

 所 在 地   京都市中京区ニ條通堀川西入二條町  別 名   二条御所
 遺 構   二の丸御殿・門・櫓・堀・石垣  形 式   平城
 築 城 者   徳川家康  築 城 年   慶長8年(1603)
 歴  史  慶長6年(1601)、徳川家康の命により、西日本の諸大名が築城を開始する。
慶長8年(1603)、二条城が完成し(現在の二の丸の部分)、徳川家康が入城する。
慶長16年(1611)、二条城で、徳川家康が豊臣秀頼と対面する。
寛永元年(1624)、徳川家光が城の拡張・整備に着手する。このとき本丸・二の丸・天守が完成し、現在の規模になる。
寛永3年(1626)、後水尾天皇が行幸する。
寛永11年(1634)、徳川家光が30万の大軍で入城する。以後、二条在番を置く。
寛延3年(1750)、雷火により五層天守が焼失する。
文久2年(1862)、徳川家茂が入城する。寛永11年の家光以来の将軍入城である。
慶応2年(1866)、徳川慶喜が二条城内で15代将軍を継ぐ。
慶応3年(1867)、二の丸御殿大広間において、徳川慶喜が大政奉還を発表する。
歴 代 城 主 徳川将軍歴代


大手門(国重要文化財)
一階を城門とし、二階に櫓をあげた櫓門
東南隅櫓(国重要文化財)
東大手門の門内に設けられた番所(国重要文化財)。江戸から派遣された大番組の二条在番によって警備されていた。この番所は、番士の詰め所の一つ。 二の丸庭園(特別名勝)


       二の丸御殿(国宝)
右手前の唐破風車寄、中央の入母屋大破風遠侍、左奥
式台
二の丸御殿
奥から遠侍、式台、大広間
二の丸御殿は、桃山時代武家風書院造の代表。
車寄に続く遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の六棟からなる。
狩野派絵師による襖絵で各室を飾っている。
二の丸御殿 黒書院


       本丸御殿(国重要文化財)
京都御所にあった旧桂宮御殿を明治26−27年(1893-94)に移したもの。弘化4年(1847)に建てられたもので、宮御殿の遺構として残っている唯一のもの。
            天守台
五層の天守が、寛永3年(1626)、伏見城から移して建てられた。寛延3年(1750)焼失し、以後天守は再建されず。
本丸櫓門 北中仕切門
石垣の中に形成された埋門である
内堀 現地案内板  輪郭式の縄張り


二条城は、徳川家康が、京都御所守護と、将軍上洛時の宿舎用に築城した。
従って、戦略的な意味はあまりなく、正方形の本丸を長方形の二の丸で囲んだだけで、堀も狭く、防御はあまり考慮されていない。
一方、徳川政権の権威を示すために、五層の天守を挙げ、豪勢な本丸御殿、二の丸御殿を築いた。天守と本丸御殿は焼失し、二の丸御殿(国宝)のみが現存している。

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