大坂城

 所 在 地   大阪市中央区大阪城公園  別 名   錦城
 遺 構   天守(再建)、櫓、門、石垣  形 式   平山城
 築 城 者   徳川秀忠・家光  築 城 年   寛永6年(1629)
 歴  史  石山の地は、蓮如が御坊を造り、証如が山科から本願寺を移し、一向宗の本拠となっていた。そして亀元年(1570)以後11年間、石山本願寺は織田信長と攻防戦(石山合戦)を繰り広げた。
天正8年(1580)、顕如、教如父子は、石山本願寺から退去した。織田信長は、織田信澄と丹羽長秀を城代として大坂築城を始めたq。
本能jの変のあと、天正11年(1583)に、羽柴秀吉が引き続いて大坂築城を開始する。天正13年(1585)、天守が完成する。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、続いて、翌元和元年(1615)の大坂夏の陣で、大坂城は落城した。
元和6年(1620)、徳川幕府は、天下普請で大坂城の再建を開始する。
寛永6年(1629)、大坂城が竣工する。
寛文5年(1665)、天守が、落雷で焼失する。以後、天守の再建はされなかった。
慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れた後、新政府軍が接収する。このときの出火で、大坂城の大半が焼失する。
歴 代 城 主 織田信長、豊臣秀吉・秀頼、徳川歴代将軍


現在の天守は、昭和7年に再建されたもの。

徳川時代の天守跡に、大坂夏の陣屏風に描かれた豊臣時代の天守の概容を参考にして再建された、模擬天守である。


豊臣秀吉が築いた大坂城は、広大な本丸を二の丸、三の丸が輪郭式で囲む、過去にない、壮大な規模であったが、詳細はわかっていない。天守は、外観五層で、内部は七階とも八階ともいわれている。
元和元年(1615)の夏の陣で落城したあと、元和5年(1619)、徳川秀忠は大坂城の直轄化と再建を決定し、翌年から工事を開始する。
幕府の権威発揚のため、加賀前田家など、北陸・西国の大名を動員した天下普請で工事を行ない、豊臣時代の城の上に大量の盛り土をし、痕跡を完全に消した上に、石垣を組んで築城した。従って、現在の大阪城の遺構は、総て、徳川時代に築き直されたものである。天守は五重五階・地下一階の造りであった。天守は寛文5年(1665)に焼失した後、再建されなかった。
戊辰戦争の際の新政府軍による攻撃で、本丸・二の丸の殆どの建物を焼失し、以後、敷地は陸軍によって使用された。
今は、本丸・二の丸の石垣、堀、大手門、四つの櫓が現存する。


極楽橋から、山里曲輪方面 本丸水掘 高石垣の複雑な屈曲は横矢掛り
二の丸水掘と一番櫓 青屋門


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