篠山城

 所 在 地   兵庫県篠山市北新町  別 名   桐ケ城
 遺 構   石垣、堀、土塁、曲輪  形 式   平山城
 築 城 者   松平康重  築 城 年   慶長14年(1609)
 歴  史  篠山盆地は、八上山の八上城に依る、波多野氏によって支配されていたが、明智光秀により滅ぼされた。以後も前田茂勝に至るまで、八上城を居城としていた。
慶長13年(1608)、徳川家康は、前田茂勝を除いて、庶子の松平(松井)康重を封じ、篠山に築城することを命じた。篠山城は翌年に、天下普請により完成した。
元和5年(1615)、松平(藤井)信吉が、上野高崎より入封する。
慶安2年(1649)、松平(形原)康信が、摂津高槻より入封する。
寛延元年(1748)、青山忠朝が、丹波亀山より入封する。以後、青山氏が明治維新まで在封する。
歴 代 城 主 波多野氏、前田氏、松平(松井)氏5万石・松平(藤井)氏2代5万石、松平(形原)氏5代5万石・青山氏5万石


三の丸と、本丸・二の丸の石垣        本丸・二の丸の石垣と内堀
石垣は、幅広い犬走りを設けた腰巻鉢巻石垣となっている。内堀は工事中で水が抜かれている。
二の丸 奥の石垣が本丸 本丸と天守台


馬出しがほぼ完全な形で残っている遺構は貴重。
東馬出し 石垣の角馬出し 南馬出し 土塁の角馬出し


篠山城の築城は、大坂・豊臣氏包囲網の一環であり、藤堂高虎を縄張奉行、池田輝政を普請奉行として、二十大名を動員した天下普請で行なわれた。
正方形に近い本丸・二の丸を囲む内堀の周りを正方形の三の丸で囲む、藤堂高虎好みのロ字型の縄張りとなっている。本丸内の天守台に天守はあげられなかった。三の丸には大手馬出し、東馬出し、南馬出しの三箇所の馬出しが設けられている。


現地案内板より

輪郭式の縄張り

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