筒井城
所 在 地 | 奈良県大和郡山市筒井町 | 別 名 | ― |
遺 構 | 土塁、濠 | 形 式 | 平城 |
築 城 者 | 筒井順永 | 築 城 年 | 永享2年(1430) |
歴 史 | 筒井氏は大神神社の神官の出ともいわれ、大和守護・興福寺の衆徒として勢力を持つようになった。 筒井城は、筒井順永によって永享2年(1430)に築城されたとされる。 以後、大和国の支配をめぐって、筒井城は荒廃を繰り返し、特に筒井順昭・順慶父子と松永久秀との戦いは熾烈を極め、筒井順慶は松永久秀に幾度か筒井城を奪われることになる。 元亀2年(1572)になって、攻守は逆転する。筒井順慶は筒井城を奪還し、松永久秀の多聞城を攻め、翌天正元年(1573)に多聞城は落城する。天正7年(1579)には、多聞城から石垣を筒井城に運び込んで改修に使用している。 天正8年(1580)に、織田信長の一国一城令により、筒井順慶は本拠を大和郡山城に移し、筒井城は破城となる。 |
歴 代 城 主 | 筒井氏7代 |
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城址を示すものとしては、集落の細い路地を通り抜けた畑地の一角に、石碑が建てられているのみである。これすら、地元の人に聞かないと、見つけるのは難しい。 | |
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堀のあととおぼしき、ハス田。 城域が湿地帯であり、これが、一国一城令の際に本拠を大和郡山に移した理由の一つであると考えられる。 |
筒井順慶は、織田信長に従い、明智光秀の与力大名となるが、天正10年(1582)の本能寺の変の際には、明智光秀に与することを避けたため、所領を安堵される。しかし順慶は父順昭と同様に短命であり、天正12年(1584)に大和郡山城で死去する。36歳であった。胃潰瘍らしい。養嗣子の筒井定次が継ぎ、伊賀上野に移封になる。関ヶ原の戦いのあと、筒井定次は伊賀上野蕃を立蕃するが、乱行を理由に改易され、大名としての筒井氏は消滅する。 筒井城は、堀と土塁をめぐらせた、戦国期における有数の規模の平地式城館であり、堀は外堀と内掘からなる。多聞城から運び込んだという石垣は、大和郡山城の築城に使用され、残っていない。また城が破却された後、城跡は集落となっているため、土塁や堀が一部残っているだけである。 |