宇陀松山城

所 在 地 奈良県宇陀市大宇陀区春日・拾生・石清水 別 名 秋山城、神楽岡城
遺 構 石垣 空堀 天守台 形 式 山城(標高473m、比高125m)
築 城 者 秋山氏 築 城 年 南北朝時代
歴 史 宇陀松山城は、大和宇陀郡の国人領主・秋山氏により、南北朝期に築城された。秋山氏の居城として、城下町も存在したといわれる。
戦国末期の豊臣時代になり、豊臣秀長が大和国に天正13年(1585)に入部すると、秋山氏は退去し、宇陀松山城へが豊臣秀吉の家臣の伊藤義之が入った。以後、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種などが、豊臣政権下で宇陀松山城の城主となる。これらの豊臣配下の大名により、城は大規模に改修され、城下町も整備された。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、多賀秀種は西軍に属して改易され、福島正則の弟の福島孝治が城主として入封した。
しかし、福島孝治は元和元年(1615)に、大阪夏の陣で豊臣方に内通したとして改易され、城は破却された。
歴代城主 秋山氏、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種、福島孝治(3万石)


本丸の東端部に設けられた天守郭。西面の二か所に、階段と虎口がある。


城の城郭部は、古城山の山上一帯に築かれた大規模なものであり、本丸と天守郭からなる主郭と、主郭の西側の二ノ丸とで構成される中心郭群の外側を、御定番郭、御加番郭などが檀状に囲んでいる。
山上の城郭は近年まで、秋山氏段階の面影を残す土造りの城であると見られていたが、平成に入って発掘調査が行われた結果、天守と大規模な御殿を備えた、総石垣造りの豊臣期の城であることが判明した。福島孝治が改易されたあと、徹底的に破城され、土で覆い隠されていたらしい。
現在、発掘による石垣の復元が進んでおり、また各郭も整地されているので、気持ちよく城見学をすることができる。(2011.04.02)


南西虎口部(雀門と伝わる) 南東虎口部(大門と伝わる)


本丸 本丸南の虎口


本丸の南西面 二ノ丸方面から見た様子 二の丸


<アクセス>
宇陀市大宇陀区の集落にある春日神社が起点となる。春日神社の右脇に城跡の山上へ入る道がある(標識がある)。山道を10分ほど歩き、空堀と土橋を越えると、石段からなる虎口の雀門に到達する。奈良県内では、大和郡山城高取城に次いで規模が大きく、期待を裏切られないこと請け合い。
近くに駐車スペースはない。道の駅「宇陀路大宇陀」に車を置き、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている街並みを散策しながら、北に1kmほど歩くことをお勧めする。(2011404.02)

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む