多聞城

 所 在 地   奈良県奈良市多門町  別 名   多聞山城
 遺 構   不明  形 式   平山城
 築 城 者   松永久秀  築 城 年   永禄3年(1560)
 永禄5年(1562)ともいわれる
 歴  史  松永久秀は、三好長慶のもとで頭角を表し、永禄2年(1559)に信貴山城に入り、さらに永禄3年に興福寺を破って大和を勢力下に入れ、東大寺の北にあたる眉間山に多聞城を築いた。
永禄10年(1567)、松永久秀は三好三人衆と戦い、東大寺を攻めて大仏殿を炎上させた。
永禄11年(1568)、松永久秀は、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に従う。
天正元年(1573)、松永久秀は足利義昭と同盟して織田信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もる。多聞城は織田信長に接収され、明智光秀、ついで柴田勝家が入る。
天正5年(1577)、松永久秀は、再び、織田信長に反旗を翻して信貴山城に籠城するが、織田信忠に攻められて敗死する。多聞城は筒井順慶によって破却される。
歴 代 城 主 松永久秀


城址は、市立若草中学校の敷地となっており、遺構は残っていない。

校門を入ってすぐのところに、「多聞城跡」の石碑が立つのみ。

学校内に部外者が立ち入ることが警戒される昨今、石碑とその周囲の写真を撮って、そそくさと立ち去る。


城内に多聞天が祀られたために多聞城という名がついたという。天守もあったといわれる壮大な城郭であり、城を訪れた宣教師アルメイダが感嘆したという記録が残っている。織田信長が安土城を築くのにこの城を参考にしたともいわれている。多聞櫓の名称の発祥の城でもある。
多聞城が破却された際の石材等は、筒井順慶の筒井城郡山城に転用されたといわれる。

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む