芥川山城

 所 在 地   大阪府高槻市大字原  別 名   
 遺 構   曲輪 石垣 土塁 堀切 土橋  形 式   山城(標高182.6m)
 築 城 者   細川高国 三好長慶  築 城 年   永正12年(1515)
 歴  史  芥川山城は、室町幕府管領・細川高国が北摂の国人・能勢頼則に築かせたのに始まるとされる。
天文2年(1533)に、細川晴元が入城し、この時期に改修が行なわれた。細川晴元は三好長慶と離合を繰り返すが、天文22年(1553)、芥川山城を三好長慶が攻め落とし、以後、芥川山城は三好長慶の居城となる。今見られる遺構は、三好長慶の時代に改修・整備されたもの。
永禄3年(1560)、三好長慶は河内飯盛城に移り、子の三好義興が城主となる。
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は摂津に侵入し、三好長逸の立てこもる芥川山城を攻め落とし、和田惟政を城主とする。
翌、永禄12年(1567)、和田惟政は高槻城に移り、城を高山友照に預ける。
和田惟政の死後、高槻城を子の惟長が継ぐが、高山友照・重友(右近)父子は和田惟長を追放し、高槻城の城主となる。この頃、芥川山城は廃された。
歴 代 城 主 能勢氏、細川晴元、三好長慶、三好義興、和田惟政、高山氏

本丸と出丸の間の南側の谷筋が大手道と考えられている。この大手道に築かれた石垣。崩れているが、大規模な高石垣となっている。


芥川山城は、芥川によって北・西・南を囲まれる城山(三好山)の山頂付近、500m四方を城域とする、巨大な戦国山城。
西から東へ、本丸を中心とする主郭の曲輪群、出丸を中心とする曲輪群、東曲輪群の、三つの曲輪群が連なる。


東曲輪群と出丸の曲輪群の間に設けられた、堀切と土橋。この土橋を過ぎると、城跡を示す小さな石碑が建っている。その直ぐ横の下へ降りる山道が大手道。この道を下ると、上記の大手石垣を右側に見ることができる。 本丸直下の虎口


本丸。南北約70m、東西約30mの規模であり、南側の一部が一段低くなっている。三好長慶を祀る祠がある。 砲台状に高くなった本丸。その西・南・東の周囲を腰曲輪が囲む。


本丸群の西南下部にある石垣の痕跡 バス停の案内板の縄張り図

<アクセス>
芥川山城に向かうには、塚脇のバス停が起点となる。このバス停には芥川山城の案内板がある。バス停の西側の信号がある道を北へと入り、すぐに細い道になるが、まず左へ曲がり、次に右へ曲がる。この道を300mほど進むと、右手に「黄金の里老人ホーム」がある。そのまま直進して100mほどで、右手に未舗装の坂道があり、「三好山へ40分」の標識がある。ここが城跡への入り口になる。城跡まで40分はかからない。その半分程度。付近は道が狭く、駐車できる場所はない。近辺のコンビニを利用して、車を置いて歩くのがベター。

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