鳥取城

所  在  地  鳥取県鳥取市東町2丁目 別  名  久松山城
遺  構  堀 曲輪 石垣 門 形  式  平山城
築  城  者  山名氏 築  城  年  天文年間(1532-1555)
歴 史 鳥取城の始まりは諸説あるが、天文年間に因幡山名氏と、対立する但馬山名氏のいずれかによって、築城されたと考えられている。城主が確認されるのは、元亀年間に因幡山名氏の家臣からのし上がった武田高信。
天正元年(1573)には因幡山名氏の居城となるが、天正8年(1580)の織田方の羽柴秀吉による一次鳥取城攻めに際して和議を結び、山名豊国は織田信長に臣従した。しかし直後の毛利方の攻撃に降伏し、吉川経家が城主として入る。
天正9年(1581)、羽柴秀吉は二次鳥取城攻めを行なう。兵糧攻め4か月耐えたが、餓死者が続出し、開城する。
鳥取城には宮部継潤が城代として入り、天正13年(1583)の九州征伐の功により、5万石を領して正式な城主となる。しかしその子の長房は、関ヶ原の戦いで西軍に属し、改易される。
慶長5年(1600)、関ヶ原の功により、池田長吉(池田輝政の弟)が近江水口岡山より入封する。
元和3年(1617)、池田光政(池田輝政の孫)が播磨姫路より入封する。
寛永9年(1632)、備前と因幡の所領交代により、備前岡山より池田光仲が入封する。
歴代城主 山名氏 武田氏 吉川氏 宮部氏(5万石) 池田氏(6万石) 池田氏(32万石) 池田氏(32万石) 


山下の丸の、二ノ丸と櫓台の石垣


鳥取城は、久松山の山頂部の山上の丸と、北西山麓の山下の丸からなる。山上の丸は戦国時代の城を改修したものであり、本丸、二の丸、三の丸などからなる、詰めの城である。山下の丸が城の中枢部であり、二の丸、三の丸、天球丸などからなる。池田長吉のときに大改修され、山上に天守、山下に御三階櫓を有する独特の景観を有する近世城郭が完成された。
山上の丸へは、山下の丸から山道を歩くこと約30分ほどかかる。山歩きの覚悟が必要。


中仕切門 三の丸から二の丸へ通じる仕切り門であり、唯一の現存建築物 二の丸の東端の登り石垣


山下の丸の中心曲輪である、二の丸と櫓台 櫓台には層塔型の御三階櫓が建っていた。山上の天守が焼失した後、御三階櫓が天守の代用とされた。


二の丸と天球丸の間の表御門跡 天球丸の石垣。天球丸は、池田長吉の姉の天球院が住んでいた曲輪。


山上の丸の、本丸 山上の丸の、本丸の天守台。二層の天守が建っていたが、元禄5年(1692)に落雷で焼失し、再建はされなかった。

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